ぼくはこの映画ブログをやっているので、映画系情報サイトや、動画配信サイトなどで、映画のレビューをよく読んでいる。
そうすると、難解な映画や説明が少なめな映画のレビュー欄で、「難しくて理解できなかった」という内容の低評価レビューに出くわすことがよくある。
そのこと自体は何とも思わない。
ぼく自身も「よく分からなかったな」と思ってしまう映画はあるし、よく分からなかったから楽しめなかった、だから低評価、というのは全く正当な判断だと思う。
ただ、このようなレビューの中で一定数いるのが、
「この映画を面白いと言う人は、難解な映画を観ている自分に自惚れているだけ」
というタイプのレビュアーだ。
ぼくはこのタイプのレビューが嫌い。
なぜかと言うと、自分が理解できないものを楽しんでいる他人は、自分の能力を誇示したい単なる自惚れた人間に違いなく、そういう人は自己顕示のため嘘をついていると、勝手に決めつけているから。
さらに悪いケースでは、「自分は頭が悪いので」と予防線を張っているケースもある。自己卑下することで自分への攻撃は回避しながら、自分が理解できない何かを楽しんでいる誰かを攻撃するというのは、さすがに卑怯だと思う。
このようなレビューは無数にあるのだが、直近で観た映画『A GHOST STORY / ア・ゴースト・ストーリー』のアマゾンプライムビデオのレビューにこういうものがあったので一例として紹介する。
どのレビューサイトや感想ブログでも絶賛されているので驚きました。
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正直、これを“映画”と呼んでいいのかすら疑うレベルで面白くなかったです。
これを面白い&深いと感じれる人は、恐らくそれを語ってる自分に酔える人・・・だと思います。…(以下省略)
このレビューは、これを書いている現時点では「トップレビュー」表示で一番上になっている。
時期によってはもうこのレビューは見れなくなっているかもしれないけれど、この1個のレビューがどうこうではなくて、こういうタイプのレビューがよくあるという話が、ここで考えていること。
(ちなみに、ぼくはこの映画を評価しているので、「酔える人」ということになる。)
このタイプのレビューが論理的におかしいことは、言わずもがなだけど、一応書くと、すごく端的に言えば、「自分に酔ってるだけ」という主張に「なんの根拠もない」というのに尽きる。
ちなみに、『A GHOST STORY / ア・ゴースト・ストーリー』は、ぼくの感覚では難解な映画ではない。
抑えた演出の映画で、いわゆるエンタメっぽい映画ではないけれど、まあ、普通に作り手が何を言いたいのかは分かるな、という映画だった。
ただ、こう言うと今度は「これを難解とか言ってるやつは真面目に映画を観る気がないに違いない」みたいなニュアンスが出てしまい、水掛け論にしかならないので、そこに立ち入る気はない。
映画に求めるものは人それぞれだし、最初にも書いた通り、「この映画は分かりにくくて面白くなかった」というのであれば、それはひとつの意見として正しい。
だから、問題は、映画が理解できるかどうか、どのような姿勢で映画を観るかではない。それは人それぞれ自由だ。
そうではなくて、問題は、なぜ人は自分が理解できないものを楽しんでいる人を見ると、攻撃したくなるのか、さらに言えば、嘘つきだと考えるのか、ということである。
上のレビューで言えば、この人は、この映画を好きな人に対して、「自分に酔える人」と悪口じみたことを言う必要性は全くない。
単に「自分は面白いと思わなかった」と言うだけでいいのだし、それが主流の意見と違っていても、誰にもそれを否定する権利はない。
必要性がないのに敢えて言っているのだから、当然そこには「攻撃したい」という欲望がある。
その欲望はなぜ生じているのか。
その欲望の原因を、ぼくの頭の中で勝手に証明することはできないけれど、想像してみることはできる。
原因はいくつか考えられる。
- 自分が正しいと思いたい→自分と意見の違う他人は嘘をついている
- 寂しい→自分が少数派なのが嫌。なので、本当はみんな自分と同じはず。違う意見を言っている人は嘘をついている
- 損をしたくない→自分は楽しめなかった。だから他人も楽しめなかったに違いない。楽しめたと言っている人は嘘をついている
- 自分の間違いに気づきたくない→間違いに気づかせるような意見に反発したい
どれも、共感できる原因である。といっても、共感できない原因は想像できないから、ぼくが書き出せる「原因」にぼくが共感できるのは当たり前だけど・・・。
もし上のような原因で、ああいうレビューが出てきているのだとすれば、それは意味があるのだろうか。
まず1つ目。これは単に自分の傲慢さを大っぴらにしているだけなので、無意味だと思われる。「かしこぶって自惚れてる」と言っている自分が最も自惚れているというブーメランでしかない。
2つ目。そんな方法で寂しさを紛らわしてもしょうがないとは思うが、実は、同じように他人を攻撃したい人間には共感されるので、そういう意味では有効なのかもしれない。実際、例で挙げたレビューは何の根拠もない文章であるにもかかわらず、トップレビューになっているのである。
3つ目。レビューを書いている時点ではすでに映画を観終わっており、さらにレビューを書いている時間でさらに時間を浪費しているので、やはりレビューを書く意味はない。
4つ目。これは1つ目に似ているけど微妙に違う。これは傲慢さというより弱さであり、気づいていても直視したくないから、直視しない言い訳として他人を攻撃してしまうパターンだ。
例のレビューを書いた人は、この4つ目のタイプなのではないかとぼくは考えている。というのも、レビューの後半に
長い同じシーンを見せられ、セリフもほとんど無く、明確な理由も分からない。
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後で考察サイトや、第三者のレビューを見て、「あぁ・・・そういう意味ね」と初めて理解できる。
万人受けは決してしないですし、娯楽という意味ではかけ離れた作品だと思います。
と書いている。
前半では「これを“映画”と呼んでいいのかすら疑う」と書いていたのに、この後半では「娯楽という意味では~」と留保をつけるなど、前半よりかなり軟化した文章になっている。
そしてこの人は、他人の考察やレビューを読みながら、ちゃんとこの映画を理解しようと努めているし、実際理解できている。だから多分、単に傲慢な人ではないと思う。
では、この人が、「この映画を楽しんでいる他人」を否定したくなってしまったのは何故なのだろうか。
それは、この映画を観て退屈していた「過去の自分」を否定したくなかったからなのではないだろうか。
この人は、他人のレビューを読んで、「なるほど、そうだったのか」と、この映画を理解できてしまった。
しかし、そこでこの映画の評価を変えるということは、さっきまでこの映画に退屈させられイラついていた自分の感性を否定するということ。
日常生活でも、何かに怒っていて、しかし実は自分の方に落ち度があったと分かった時、とてもバツが悪くて素直に認められない時ってあると思うのだが、そういう感覚なんじゃないかな、と想像する。
そういうときは、なんだかんだ理由を付けて、「いやいや、自分が怒っているのはそこじゃなくて、そのあとのお前の対応の方なんだ」とかなんとか言って、怒りの正当性を無理くりにでも維持しようとしがちではないだろうか。
このレビューには、そんな息苦しさを感じる。
再三繰り返しているけれど、その瞬間「退屈だなぁ」と思った感覚に、嘘も間違いもないのであって、別に固執する必要も、正当化する必要もないのにな、と個人的には思う。
ちなみに上の4つで言えば、1は悪役のパターンで、4はストーリーを通して成長する主人公のパターンだと捉えられる。
この文章はどこへ行くのか分からなくなってきたが、ぼくがこのようなレビューに反応してしまうのは、ぼく自身も映画語りを自己アピールに使っている人に対しては違和感をもっているからだ。
こんなブログを書いているから、お前が言うなと言われそうだが、そうなのだ。
たしかに、そういう自惚れな人はいる。たが、本当に映画のことを考えて喋っているだけの人もいるのだ。
そこを見極めず、「映画に関して小難しいことを言ってるやつは全員自分に酔っているだけだ」という切り捨てに対しては、「それは単にあなたが人の話をちゃんと聞く気がないだけですよね?」と言い返すしかない。
それはあなたの怠慢なのに、こちらの自惚れのせいだと言われたら、そりゃあ腹が立つよね、と思うわけだ。
というわけで、この文章は、レビューをレビューする文章だったのだ。