映画

ブラック・ボックス -身体と意識の分離による親子の再会ドラマ、意外性はないが丁寧なストーリー-

概要

交通事故で妻を亡くし、自身は記憶喪失となってしまったノーラン。一人娘のエヴァはノーランを献身的に支え、ノーランもエヴァを大事にするが、自然に父親として振る舞うことができない。

仕事も見つからず、エヴァにも負担をかける状況に追い詰められたノーランは、以前から新しい治療法を勧めてきた、少し怪しい医師の元を訪ねる。

彼女は催眠術とハイテク機器を使い、ノーランの意識を、彼の記憶の中へいざなう。

ノーランは自分が忘れてしまっていた過去の断片の中で、自分の記憶を取り戻そうと奔走するが、その過程で、自分が実は良き夫・父ではなかったのではないか、という疑念を抱き始める。

見る前ポイント

SF+オカルトでややホラー演出もある作品。ねじれた愛情によって引き起こされる事件を通した人間ドラマが主軸。結末はおおむね大体の観客が期待するであろう真っ当な方向へ向かっていく。既視感はあるが丁寧なストーリーテリング。ホラーシーンは少ないが、関節が外れたまま奇妙なポーズで向かってくる気味の悪いモンスターが出てくる。

レビューの印象

高評価

  • 登場人物の配置やストーリー展開が上手くまとまっており良いドラマ
  • 話が二転三転する面白さ
  • SF、オカルトにヒューマンドラマを混ぜた独自の雰囲気

低評価

  • テンポが悪く、恐怖感やハラハラ感が弱い
  • 内容に既視感がある
  • 主人公不在の未消化な結末に感じる
  • SF設定がデタラメすぎる

ナニミルレビュー

アイデアは既視感があるし、SF設定も浅い。結末も順当なものなので意外性や衝撃はない。

記憶喪失や、夢の世界(潜在意識/失われた記憶)の中に入り込むSF設定に期待するとやや肩透かしを食うと思う。

しかし、ストーリーが丁寧に語られていくので、ドラマとしてちゃんと面白い。

人間ドラマを描くストーリーの仕掛けとして、SF設定が利用されているんだな、という理解で見ると、ヒューマンドラマプラスアルファな映画として面白いのではないかと思う。

少なくとも、最後まできっちり描いてくれたな、という心地よさがある。

「この件はスルーして終わるのか?」という不安がちょこちょこあったのだが、エンディングまでにはそれらはしっかり回収されて、ちゃんと観客が期待していることを叶えて終幕していく感じが良かった。

また、物理的に会うことと、意識(自我)を通して会うことの差をストーリーに組み込んでいるのが面白い。

登場人物の行動で語っていく丁寧な演出

冒頭から丁寧さは感じられる。正直丁寧すぎてくどくも感じたが、逆に雑だったらガッカリ感しかない映画になっていたかもしれない。

例えば、「ノーランは記憶喪失」という設定を伝えるためにも、まずは家族のビデオを見てイラつく様子、その後ポストイットだらけの食器棚、娘による知人クイズ、鏡に映る自分の姿に違和感を感じるような表情、カーナビを使わずにドライブ、などなどのシーンを連続させて伝えていく。

これで、ノーランが記憶を失っており、そこから少し時間が経ち、新しく道を覚えたりするぐらいの状態ではあるが、まだ自我が安定していないんだなと、ひとつひとつ丁寧に観客に情報を伝えていく。

この合間で、本作のキーパーソンである医師リリアンからのメールや、ラストで回収される「三つ編みがゆるくしか結べない」という小ネタも前振りしていく。

この冒頭のシーンからも分かる通り、本作からは、とにかく「行動」によってストーリーを描こう、という意志が感じられる。

象徴的に、ラストでは、ノーランの記憶が戻ったことを示唆するのに、エヴァと複雑なハンドシェイクをやらせている。

正直、やや不自然には感じた。このラストシーン自体はいいのだが、その前フリのために中盤の下校シーンでハンドシェイクが上手くできないというシーンが事前に入れられていて、そこがやや冗長に感じるのだ。

だから「ああ、このラストのためだったのね」という感じで納得はするのだが、蛇足感があったのは事実だ。

とはいえ、でもそういう語りをやろうとしていること自体が良いなっていうのが個人的な感想。

ただ、あまりにも真面目にそれをやりすぎているがゆえにくどく感じる場面もある。

そのハンドシェイクもそうだし、例えば、娘エヴァに対しての感情の変化を描くために、「シートベルトを締めてあげる」という行動を使っている。

序盤では父娘の微笑ましい関係を描きつつ、中盤でノーランの態度が変わり、エヴァに自分でシートベルトを締めさせることで、2人の絆に傷が入ったことを表している。

これは、上手くいっていると思う。

しかし、この行動を見せなくても、ノーランの他の言動からエヴァに対する言い難い感情は十分伝わっており、そこにさらにこのシートベルトの行為を重ねることで、やや説明過剰になっているんじゃないかと個人的には感じた。

本作は、そういうレベルで丁寧だ。

SF設定の雑さと比べると、ドラマの積み上げはやたら丁寧で、SF部分はわりとどうでも良かったんだなと思わざるを得ない。

記憶云々のSF設定は、あくまで観客に興味を持ってもらうための売り文句であって、本当にやりたかったのはこの映画的な語りでドラマを描くことなんだろうなと、勝手に想像してしまう。

SFやホラーではなくヒューマンドラマ

(以降、大きなネタバレあり)

この映画が何を描いているのかと言えば、家族をめぐる愛と執着のドラマだ。

その家族ドラマを、記憶を失った主人公がそれを取り戻していく過程を通して、人間関係を少しずつ明らかにしながら語っていく。

記憶喪失の主人公を設定することで、最初からほぼ全ての登場人物(トーマスの前妻と娘以外)が出そろっているのに、その関係性がストーリーを通してだんだんと明らかになっていく(変化していく)面白さが描かれる。

この映画はSFホラーやミステリー等とジャンル分けされる映画であるだろうけれど、ストーリーの実質は家族関係を描くヒューマンドラマだと言える。

だからSF設定はその仕掛けに過ぎない。

中盤で明らかになることだが、主人公ノーランの意識は、実はノーランではなく、医師リリアンの息子トーマスのものである。

事故で脳死した(ということになっている)ノーランの脳に、保存しておいたトーマスの脳波を移すことで、トーマスの意識をノーランの体に移植したという設定になっている。

さすがにむちゃくちゃである。むしろ、「脳を移植した」とか言われた方がまだ納得できた。

もちろん、結末でノーランが復活するためにも、丸っと脳が入れ替わっていてはいけないというのはある。

また、移植ではなくダウンロードであることから、意識に関して面白い切り口も生まれてもいると思う。

脳移植には一回性がある。脳波ならば無限にコピーできる。

この映画に登場するトーマスは、一見、あの世から戻ってきた魂のようにも感じる。しかしそれは間違いで、あれは無限コピーできるデータの1バージョンに過ぎない。

(無限と言っても、この方法は生身の身体を必要とするから、かなり限度があるけれど)

なんにせよ、この映画は別にSFのリアリティを推す映画ではないので、個人的には、ここの荒唐無稽さはわりとどうでもいい。

むしろ面白いのは、脳波を使って息子を生き返らせた母親の執着や、ダウンロードから生き返ってしまったという状況の方だ。

「再会」親子ドラマ

(ややこしいので、記憶が戻る前と、エンディングの主人公は「ノーラン」、記憶が戻った後~エンディングまでの主人公は「トーマス」、と書く)

この映画は「親子が再会する」ストーリーを3つ重ねている。(ノーランとエヴァ、リリアンとトーマス、トーマスとその娘)

「再会」を通じて、「失われたものを取り戻したい」という人間の欲望を描いている。

リリアンは、亡き息子を蘇らせるマッドサイエンティストだ。その意味では異常だが、その根本にある欲望は、「記憶を失う前の父に戻ってほしい」と願うエヴァの欲望と同じものだ。

そして蘇ったトーマスが最初に行うのは、エヴァと別れ、残された前妻と娘に会いに行くことだ。

そこで面白いのは、リリアンやエヴァと違って、トーマスの前妻は再会を望んでおらず、そこでねじれが生じること。

そしてその理由はトーマスの生前のDVであり、これが序盤でノーランが自身の過去に不安を持って、記憶の回復に前のめりになる動機と連動している。

トーマスの精神的未熟さは、子離れできていないリリアンという母親を通して説得力のあるものとしても描かれており、そのリリアンによってこの事件が引き起こされている。

このあたりの登場人物の設定とストーリーの絡め方はとてもは上手いと思った。

また序盤からホラー要素として現れる関節バキバキモンスターも、トーマスの死に方と関わっており、それも生前のトーマス家のエピソードとして、つまりその家族の人間関係と関連してストーリーに組み込まれている。

こんな感じで、それぞれのストーリー要素が、ちゃんと家族関係や親子関係と関連してストーリー上に配置されており、それが中盤から終盤にかけてきっちり種明かしされていく。

こういうところにも丁寧さを感じられる。

エヴァの「父を取り戻したいという欲望」と、リリアンの「息子を取り戻したいという欲望」は、同じだと書いたが、ストーリー上では明確に善悪として区別されている。

何が違うかと考えてみれば、エヴァが求めるノーランは物理的に生きており、リリアンが求めるトーマスは物理的に死んでいるという違いだ。

(もちろん、他人の体に勝手に意識を移植するという悪があるのは大前提だが)

つまり、ここに「再会を諦めるべき別れ」と、「再会を求めてもいい別れ」の境界がある、という風にこの映画は語っている。

このことで考えさせられるのは、突き詰めて言えば、ぼくたちは人間を考えるときに、身体と切り離してその人を認識することを究極的には良しとしていないということかもしれない。

何度も書いているが、この映画のSF設定は荒唐無稽だ。だが、思考実験としては有用だし、そこに家族ドラマを重ねることで、抽象的な思考実験以上に、この問題について考えることを観客に促せていると思う。

主人公はDV男

ちなみに、この映画の主人公はノーランだが、実質的にはトーマスだと言える。

なぜなら、ラストで記憶が完全に戻るまで、観客が見ているノーランの中身はトーマスだからだ。

そのトーマスは、記憶を取り戻し、自分が妻によって殺された(ほぼ正当防衛)ことを知って反省し、ノーランの体から出て行くことを自ら選択する。

つまり、この映画で成長・変化するのはトーマスであり、その意味でも主人公はトーマスなのだ。

そう考えるとこの映画は、妻に殺されたDV男を主人公にしながら、記憶喪失という設定を使って観客に彼に対する情を持たせ、ストーリー中で暴力的に振る舞う場面でその印象を反転し、そしてクライマックスで反省・成長させて主人公を退場させ、ストーリーを丸く収める、という構成になっていることがわかる。

順当に進む意外性のない映画だという印象のわりに、なかなか手の込んだことをやっていたんだなと思わされる。

つまりこの映画のメインストーリーは父と娘が再会するドラマかと思いきや、死んだDV男が現世に帰って反省するドラマなのだ。

トーマスの意識は、ノーランに体を明け渡し、どこか謎の空間に去っている。

一応、ストーリーとしてオチはついているのだが、あのトーマスはどこに行ったのだろうか、と思わずにはいられないラストではある。

もしかしたらノーランの脳内にずっと生き続けるのだろうか。とはいえ、ノーランもいつか死ぬのだから、永遠に彷徨い続けるわけではないだろう、というのがとりあえずの納得の仕方だろう。

しかし、先にも書いた通り、あの成長したトーマスは、無限にコピーできるDVトーマスの1バージョンでしかないんだよなぁ、というモヤモヤがあるのも事実だ。

後日談のシーンでは、トーマスの母リリアンが、未だトーマスを復活させたデータを保持していることが暗示される。

リリアン自身がVRメガネをかけるシーンで終わる。このシーンをどう読むかは観客に委ねられているのだろう。

正直、その後どうなったのかはわりとどうでもいいのだが、とにかく、意識を無限にコピーできるという設定であったことに面白さがあると思う。

この映画をトーマスの成長をメインとして見た場合、なにが彼を成長させたのか、という疑問が当然生じる。

それは、ノーランの身体に入り、良き父として振る舞った経験だと言えるだろう。

トーマスはその振る舞いにずっと違和感を感じてはいたが、周囲に期待される善人を演じ、その過程でエヴァとの関係も深まり、結果的に生前の自分の行為を相対化して、反省できた、と考えるのが自然だと思う。

そして、成長を示す「行動」としてノーランに身体を明け渡す。

観客が映画を観るように、トーマスはノーランの目に見える景色を見て、変化している。

「他人の身体に自分の意識を入り込ませる」というこの映画のSF設定は、登場人物に感情移入して観る映画鑑賞に似ているのかもしれない。

トーマスはノーランの人生を経験し成長する。そのトーマスの成長を、観客はトーマスに感情移入することで擬似経験している。

そういう入子構造が生じているのも、この映画の面白さかもしれない。

関連作品

トータルリコール

こういう映画のクラシック

アリスのままで

若年性アルツハイマーを患った主人公が記憶を失っていく様子を描いた作品

A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー

死んで体を失い、記憶だけが残ってしまった男のその後を描く作品

クリミナル 2人の記憶を持つ男

犯罪捜査のため、他人の記憶を脳に移植された悪人の描く作品

ホームカミング(シーズン1)

記憶喪失と贖罪のストーリー