概要
埼玉県に住むある一家は、娘の結納のため、3人で車にのり東京へ向かう。その車内でたまたま流れたラジオで、東京から抑圧を受ける埼玉を開放へ導いた「都市伝説」が語られる。
そこは「都会指数」という数値を元にヒエラルキーが形成される世界。埼玉県人や千葉県人は東京からひどい差別を受けており、華やかに発展する東京に対して、辺鄙な土地で貧乏な生活を余儀なくされている。
東京都知事を輩出する名門白鵬堂学院へ転向してきたアメリカ帰りの美男子:麗。都知事の息子である百美は彼に恋をし、埼玉出身である麗と共に、東京による埼玉差別の象徴「通行手形」制度を廃止するため、行動を起こす。
レビューの印象
高評価
- バカバカしさを突き詰めている姿勢に感心する
- 支配層に対して被支配層が連帯して戦うという展開がアツい
- 悪口を言いながらも地元愛が溢れる、愛憎半ばの演出が心地いい
低評価
- ギャグだと分かっていても、差別描写をお笑いとして描いていることに不快感がある
- 関東圏の関係性を軸とした笑いなので、その文脈が分からないとそこまで笑えない
- テレビ的な笑い、内輪ウケの笑いで、コメディ映画としてはイマイチ
ナニミルレビュー
ポジティブ
恐らくどこにでもある、隣接地域への対抗意識をあるあるネタとして誇張し、自虐的に面白おかしく描いている。
セレブをパロった過剰に綺羅びやかな、時代錯誤的な東京の世界と、時代劇的に田舎っぽい、これまた時代錯誤的な埼玉や千葉。高層ビルや電車の路線図など、確実に現代であることを描きながら、帯刀した反乱分子や貧農がいる中世仕立ての世界観を混ぜ、「そんなバカな」と思わせるアベコベな設定の面白さ。コメディであると共に、東京と埼玉や千葉の関係性をデフォルメして描いている。
その上で、「東京テイスティング」という街の匂いからその地域を当てたり、埼玉の県産品を使ったギャグなど、関東圏に住んでいる観客にとってはクスリと笑える展開がこれでもかと詰め込まれている。
必ずしもそのネタ元の意味がわからなくても、「東京対それ以外」という構図が分かっていれば、その面白さは最低限伝わるし、とにかく「馬鹿なことを大真面目にやっている」という可笑しさは十分伝わるので、関東圏の「あるある」にそれほど詳しくない私が観ても、面白さは理解できた。
とにかくコメディ部分に関しては、「東京対その他」という強者と弱者の関係、地元あるある、地名や特産品を使ったギャグ(主にそれを下げる形での自虐的なギャグ)を軸としており、当事者にとってはとても面白いのだろうな、と思うし、当事者でなくても、そのやりすぎな演出で笑える、という形になっている。
ストーリーは大変わかりやすく、抑圧された人間が、抑圧する側の悪代官たる東京都知事を追い落とす話。
まあ、ストーリーはあくまで埼玉ネタを入れ込むための最低限のものなので、特に意外性や精緻さはないけれど、登場人物たちの行動を説明するのに必要十分だとは感じる。というか、そこを真面目に見ることを拒む馬鹿らしさがあるので、そこは最低限で問題ないのだと思う。
当然、差別的な内容であるこのストーリーをマイルドにするため、このストーリーはあくまでラジオで流れる「都市伝説」であるという設定になっている。
また、ラジオを聞きながらそこに茶々を入れる娘のツッコミによって、「都市伝説」内の差別を、映画内で相対化している。
もちろん、「都市伝説」が、現代と中世が入り交じる絶対にありえないデフォルメされた世界観であることも、差別の悪を薄めており、「都市伝説」内で描かれる差別は、過剰な世界観に沿って、単に過剰に表現されているのだ、という安心感を与えている。
つまり、現実を過剰に描いているから、差別も過剰になっている(=それがコメディになる)だけであり、本当の世界では、これはもっと小さな気持ち、都民と県民のちょっとした気持ちの差でしかないのだ、という伝え方になっている。
だからこそ、恐らく当事者である埼玉県民や千葉県民、東京都民もそれなりに笑って観ていられるのだと思う。
ネガティブ
ストーリーを真面目に観る必要がないのは分かりつつ、やはり、クライマックスには難がある。
最後、東京都知事を追い落とすことになるのは、百美による汚職の暴露であるけど、この暴露と、メインストーリーとして描かれる麗らの東京への反乱はほぼ無関係に進んでいる。
一応後日談として、麗たちと百美が作戦会議をしている場面を描いているが、これは、作り手もこの2つの出来事(反乱と汚職暴露)が別々になっていることを自覚しているがゆえに、言い訳として取ってつけた場面に過ぎないと思う。
普通に考えて、汚職の暴露のために反乱は不必要だ。だから、反乱があろうがあるまいが、都知事は百美の活躍により失職していたのだろうという展開になっており、ストーリー上もっともアツい展開である被差別県人の東京への反乱が、空虚なものになっている。
差別的表現については、いくらギャグとはいえ、不快に思う人がいるのは当然だろう。
「これをギャグとして笑えないのは心が狭い」というのは、あまりに乱暴で、不快に思う人が不快に思うのはごく自然なことだと思う。
上に書いたように、差別が不快にならないような工夫が凝らされているが、そもそも差別を不快に見えないように描くこと自体が悪なのではないか、という批判も成り立つ。
一応、ストーリーとしては、差別をしている側(東京)を悪として描き、被差別側を「正義」として描いているのだから、正しい構図にはなっている。百美が過剰に非都会なものに悪い反応をする姿は、愚かな姿として描かれており、そういう意味では、差別自体を攻撃していると受け取ることもできる。
が、当然、これはこれで東京都民に対する差別でもあるわけで、「強者なのだから悪者にしても許される」という、いわゆる逆差別である。
という話もあるのだが、この映画で描かれる「差別」の大半は、そのようなストーリー上の善悪で描かれるレベルのものではなくて、もっと細かい描写の中に現れる。
それは、あるあるネタ、自虐ネタ、揶揄の中に含まれるものだ。例えば群馬県を「サバンナ」と表現するのは、明らかに差別的。埼玉県人が病的に海を求めているという描写も埼玉県民を馬鹿にしている。
これ、単に、都民と県民ではなく、日本人とフランス人とか、日本人と中国人とかで置き換えて考えてみれば、どれだけひどい話なのかは簡単に想像できるはずだ。
この映画を笑って観ていられるのは、根底に「同じ日本人」という感覚があるからであり、でもその「同じ」にはまた違う暴力的な抑圧があるのであって、「同じ日本人」を単に肯定するのも違和感がある。日本人でもそれぞれ違う。それどころか、同じ県民でもそれぞれ違う。そう思えば、やっぱりこの映画が描いている差別は、ギャグだとしても、良くないんじゃないかなぁと感じざるを得ない。
そして、この映画、ラストではこれは実は「都市伝説」ではなかった、というオチになっていて、それはさすがにダメなのでは、と感じた。
まとめ
東京周辺には日本人口の3割ほどの人がおり、その大きな層の人が「あるある」と思えるネタをふんだんに仕込んだ映画として、多くの人が面白がれる作品であるのは、レビューサイトなどでの高評価を見ていてもよく分かる。
多くの人が自分ごととして楽しめる作品なのだから、話題にはなるだろうし、高評価も集まる。一方で、内輪ネタであるからこそ、ギャグ/冗談として覆い隠される差別的な構造もあり、そこに違和感を感じる人もいる。
内輪での盛り上がりや、今だからこそ分かる芸能人ネタを観ると、これはひとつの「お祭り」なのだろうという印象の作品。
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