映画

サマー・オブ・84 -男子ジュブナイル+シリアルキラーの意外性。だがちょっと唐突-

概要

1984年夏。平和な郊外に住む仲良し4人組男子が15歳の青春を送っている。

ある日、近隣で少年ばかりが襲われる連続殺人事件が発生しているとニュースが流れる。オカルトや猟奇犯罪に興味津々のデイビーはこの事件に夢中になり、さまざまな情報から、連続殺人犯が隣人の警官マッキーではないかと推理する。

デイビーは仲良しの3人にこの推理を話し、4人はこっそりマッキーの身辺調査を始めるが、なかなか決定的証拠はつかめない。

さらに隣人を疑っていることを両親に捜査を咎められマッキーに謝罪することになってしまう。

見る前ポイント

平和な郊外で暮らす4人の男子の友情。日常の退屈さゆえにシリアルキラーに心躍ってしまう向こう見ずな男子たちのジュブナイルもの。スリラー系だがのんびりした展開。あまりハッピーエンドではない。

レビューの印象

高評価

  • 80年代感(舞台や音楽、ファッションなど)が懐かしい
  • 容赦ない大どんでん返し
  • 子供だけの秘密作戦・ジュブナイルものの魅力
  • オマージュや小ネタを楽しめる

低評価

  • 後味が悪く、中途半端な終わり
  • 終盤のちゃぶ台返しに納得できない
  • ツッコミどころや無理のある展開が多い
  • テンポが悪く無駄なシーンも多い

ナニミルレビュー

全体的にほぼ乗れなかった。エンディングは「こののんびりしたストーリーでこのエンディングか!」という驚きはあった。

とはいえ、さすがにそれまでのテンションと乖離しすぎていて、気持ち的についていきづらかった。

また、そこまでの展開がほぼすべて予想を下回りすぎて気持ち的にダレていた。

つまらなく感じてしまった原因をざっくり分けると、
・ジャンルのミスマッチ
・ジュブナイル描写の薄っぺらさ
が挙げられる。

ジャンルのミスマッチ

無邪気さとスリラーの食い合わせの悪さ

この映画では、「ジュブナイル」と「殺人鬼スリラー」の2つの要素を組み合わせたストーリーが描かれる。

心温まるジュブナイルと、恐怖感のあるスリラーをぶつけて意外性のあるストーリーにしようという狙いがあったと思うし、たしかにストーリー的にはそうなっている。

しかし実際には、それぞれのジャンルがその良さを相殺してしまっているように感じた。

スリラーの恐怖感が、ジュブナイルもの特有の無邪気さによって相殺されてしまっている。

どうしてか。

まず、ストーリーの軸である主人公らの「真犯人探し」を、観客であるこちらがどう見ていいのか、かなり終盤まで分からない。

ストーリーは、主人公のデイビーが隣人の警官マッキーを連続殺人犯であると確信し、それを証明するために仲間たちと捜査を行う様子を描いている。

つまり、デイビー達VSマッキーという構図がストーリーの中心になっている。

ということは、スリラー部分の「恐怖」はどこから生じるかと言えば、「デイビーたちがマッキーに襲われるのではないか」というハラハラ感から生じているわけだ。

しかしこの映画は、この「真犯人探し」自体を、デイビーたちの子供らしい無邪気な青春として描いている。つまり、そこでジュブナイル感を醸し出そうとしている。

この「無邪気さ」を演出するために、実際にマッキーが犯人であるのかどうかは、かなり終盤まで観客には伏せられている。

マッキーが実際に犯人だと分かってしまうと、これは「無邪気」な捜査ではなく、ガチの真犯人探しになってしまい、そちらに比重がかかりすぎるからだろう。

ジュブナイル感を維持するため、マッキーが本当にヤバい奴なのだということが終盤まで明かされない。

そうするとどうなるか。

観客からすると、「これはデイビーの単なるこじつけ/妄想なのでは」という違和感を終始感じながら、ストーリーを追うことになる。

さらに、片思いや親の問題など、ときどきジュブナイルっぽい温かなエピソードがはさまれることで、やはり殺人鬼騒ぎは、単なる勘違いで「平和な町の青春の1ページ」というタイプの映画なのかな、とも思わせる。

とにかく終盤まで、デイビー達の事件捜査はまったく現実味や真剣み=危機感を帯びず、彼らが真剣だとしても、観客の目には「子供の遊びなのかもしれない」という緩んだテンションがずっと続くことになる。

このように引いた目線で観ていると、ときどき恐怖シーン的な演出が入っても、それはメタ的な演出に見えてしまう。

メタ的な演出というのはつまり、本当は何気ない日常の1場面(マッキーに声を掛けられるとか)に過ぎないものが、勘違いした子供たちの目にはこのように恐ろしく映ったのだ、ということをスリラー演出で描いている、という風に見えてしまうのだ。

本当に危険だからスリラーなのではなく、無邪気さゆえのスリラーなのだ、と。だから、主人公らにとって恐怖でも、観客にとってはカワイイ子供の勘違い。そう見えてしまうのだ。

「見えてしまう」と書いたが、この映画は恐らく、このような曖昧さを折り込み済みで作られていると思う。

そのような「子供たちの無邪気な勘違い」だったはずが、最悪な結末へとつながってしまうという驚きを与えたかったのだと思う。それこそが、この映画の押しだったと想像される。

しかし個人的には、この驚きは、それまでと脈絡がなさすぎて「意外性」というより「とってつけたオチ」に見えてしまった。「最後にびっくりさせましたよ」というごまかしに感じてしまった。

さらに言えば、このラストのせいで、それまで必死に維持していたジュブナイルもののほっこりした魅力は全て吹っ飛んでしまい。単に後味の悪さだけが残った。

殺人鬼が甘い人間になっている

ジュブナイル感を維持するための、ご都合主義的展開も散見される。

例えば、ストーリー半ばで、デイビーの仕掛けた盗聴用無線をマッキーに発見され、さらに双眼鏡で監視しているのを、逆にマッキーに発見されてしまうというシーンがある。

ここはストーリー中でもかなりスリリングな場面で、デイビーもうろたえており、観客に次の展開を期待させる場面だ。

しかし、その顛末はうやむやになっている。

それだけ疑われたのにデイビーはマッキーの庭を掘り返し、「アライグマに荒らされたと勘違いするだろう」といっている。

アライグマは、まったく疑われていない時に使えたトリックであって、マッキーに疑いをもたれたらもうその手は使えないだろう、と考えるのが普通ではないか。

そんな危機的状況での作戦であるはずなのに、友人たちが作戦通りに動いてなかったり、それでも特にまずいことにならなかったり。

とにかく、危ないはずの場面で主人公たちがテキトーに動いている。そして、そのわりには、本当にまずい事態にはならない。

そういう甘い展開が何度も続くと、やはりこれは子供たちの勘違いなのではないか。「やっぱりマッキーはただの良いおじさんでした」というハッピーエンドに向けての前振りなのではないかと思って観てしまう。

結果、怖くない。

主人公たちは怖がっている。観客である自分は全然怖くない。このギャップによって常に引いた目線になり、なんか退屈なストーリーだなぁ、という印象が続いてしまう。

嘘っぽい「ジュブナイルもの」

怖くない代わりにジュブナイル部分がすごくいいかと言われると、これも微妙だったというのがぼくの感想だ。

まず、ストーリー的に蛇足感のあるシーンが多い。

例えばボウリングに行くシーンはほぼストーリー的には意味がない。

ヒロイン初登場のシーンだが、別にここで見せる必要性もないし、ヒロインのニッキーがDJをしているという設定も特にストーリー上重要ではない。

「蛇足感」があるとなぜ問題なのかというと、単に嘘っぽくなってしまうからだ。

ある要素がストーリーの中で唐突に描かれ、それに必然に感じなければ、それは嘘っぽさにつながる。

そこにどんなに「魅力的っぽいもの(甘酸っぱい青春とか)」が描かれていても、嘘っぽければやっぱり魅力的には感じられないのだ。

ボウリングのシーンで言えば、なんとなく女子グループに色目を使ってわちゃわちゃしている絵が入れたかったんだなー、という感じ。80年代の空気を懐かしんでもらおうという意思を感じる。

ではこの、「意志」は誰の意志かと言えば、フィクションの背後にいる作り手の意志なわけだ。

ストーリーがスムーズに見られるというのは、作り手の意志が意識されないということだろう。

ストーリーを見るときは、キャラクターの意思を見るのであって、その状態がフィクション世界に没入している感覚だ。

もちろん分析的に観て、作り手の意志を読み取りながら観ることはできるが、意識しなくても作り手の意志が見えてしまうのは、ストーリーがほころんでいるからだ。

この映画ではこういうほころびがたくさんあって、だから素直にフィクションに没入し「青春いいなー」と思うことができない。

むしろ背後にいる作り手が見え隠れして、「ほら、俺たちが描く青春、いいだろ」という姿勢にちょっと辟易とする。

例えばニッキーとの関係も、まあ、言わんとしているニヤニヤ感は分かるが、ニッキー自体がストーリー上大した役割を果たさないので、ニッキーと会う時間は単にストーリーが停滞している。ニッキーがいなくても、この映画は成立する。

そうすると、「あーはいはい、この感じを描きたかったのね」となる。ストーリー上必然でなければ、このキャラクターはストーリーに要請されたのではなく、その背後にいる作り手に要請されたのだな、ということになる。

すると結局、作品の外側へと観客の視線が至ってしまうわけだから、フィクションの中に浸ることができず、フィクションによって醸し出される良い雰囲気は吹っ飛ぶ。

例えば、黒人警官に車を止められ、そこで彼が母親の体調を気遣ったり、悪ガキとの因縁をにおわせたりするのも、そういう「心地よい関係」を記号的に再現しているのは分かるのだが、結局記号的にやっているだけだから上っ面にしか感じない。この黒人警官もその後特にストーリーに絡むこともない。

この映画は、このように本筋に関係ないところで「ジュブナイルっぽいエピソード」をあれこれと入れていて、そのそれぞれは分からなくはないのだが、本筋に関係ないのだから、嘘っぽく見えるし、映画のテンポも悪くしている。

エロ本談議にせよ、スターウォーズ話にせよ、ボウリングにせよ、家庭の問題の描き方も、どこかで見たことがあるものを、ストーリー上の必要性とは関係がなく、キャラクターの上にペタッと貼って、都合よく振舞わせているように見えてしまう。

ストーリーに関係ないのに描かれている部分は、作り手が描きたくて描いたんだろうという風に見えてしまうから、結局それは嘘っぽく見えてしまう。

必然性のない描写は、どうしても浮いてしまうんだと思う。

そして浮いたシーンが多いと、当然没入感が削がれてしまう。

話のブレ

ジャンルをぶつける挑戦は、個人的に上手くいっているとは思えない。

とはいえ、なるほどそういう挑戦をしたんだなと理解できるし、実際エンディングで驚いたのは事実なので、評価できるかもしれない。

しかし、ではそれ以外の部分がよくできているのかと言えばできていないだろう。

上にも書いているように、作り手の思いだけで載せているような蛇足なシーンも多いから、全体にテンポ感が悪い。

それを除いても、例えば捜査シーンのモタモタ感がすごい。

捜査して、何もなかった、捜査して何もなかった、という場面が数回繰り返される。

マッキーに見つかって、大きく展開するかと思いきやしない。

あげく親に自分たちから話し、当然信じてもらえず、マッキー本人にすべての手の内を明かす。明かしてもなお、劇的なことは起こらない。

とにかく、こねこね同じようなテンションで意味があるのかないのか分からないことを繰り返している。

個人的に気になったのは、後半でデイビーのモチベーションが変化している点だ。

この映画でデイビーのキャラは、猟奇殺人やオカルトなどに興味津々の男子というもので、だからこそ、身近で起きている連続殺人事件に興味を持った。

そして事件の捜査をしていたのも、そういう無邪気な好奇心からであった。

それが、中盤以降で両親に止められ、捜査の中止を余儀なくされると、「次の被害者がでるのを止められるに!」というような憤りを見せている。

この憤り自体は全うだけど、いや、お前はそんな高い志でこの事件を捜査してたんじゃないだろ、とツッコまずにはいられない。

そして、単なる無邪気な好奇心だからこそ、ジュブナイルのみずみずしさがあって、良かったのだ。

だから結局、エンディングがあれだから裏切られた、という以前に、終盤ではすでにジュブナイル的設定とか、主人公のキャラ付けが結構ないがしろにされている。

そういうところから見ても、やはりかなり無理のあるストーリーだと言わざるを得ない。

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