映画

ある少年の告白 -子のセクシャリティと父の信念の相容れなさで描く「正しさ」の難しさ-

概要

牧師の父を持つ青年ジャレッドは、大学でのある事件をきっかけにゲイであることを両親に知られ、父の提案を受け入れてある施設へ通うことになる。

そこは教会の教えに基づき、同性愛者を「治療」し、異性愛者へと転換するプログラムを行う施設。

愛する両親の思いと、自分自身の感情の間で揺れ動きながらプログラムに参加するジャレッド。

施設での日々を過ごすち、ジャレッドの中ではプログラムに対する不信感の方が高まっていく。

我慢の限界を迎えたジャレッドは、母に助けを求め、施設を後にするが、牧師である父はそのことに不満を持ち、父子の間には溝が残る。

見る前ポイント

「ゲイを治療する」という問題含みなモチーフを扱っている。互いに相容れない価値観を抱えてしまった父と子の葛藤。特定の価値観を押し付けてくる集団生活のキリキリとした緊張感。大団円ではないが希望のあるストーリー。

レビューの印象

高評価

  • 「このような事態が現実に起きているのか」という驚きがあった
  • ゲイに対する様々な視線や苦悩が描かれていて考えさせられた
  • 「正しさ」をめぐる人間関係が感情の機微を通して描かれている

低評価

  • 描かれている問題は興味深いが、ストーリーが単調で退屈
  • 矯正治療の描き方が表層的でリアルに感じない/もっとひどい
  • 時間が飛び飛びで分かりにくく、ラストも含め曖昧なドラマに感じる

ナニミルレビュー

この映画の面白さを3つに分けるなら、
・「転換プログラム」のスリラー
・父・母・子の家族ドラマ
・ゲイである主人公の思春期ドラマ(回想シーン)
に分けられると思う。

同性愛が一般的なことだと考えられている現代、さらにキリスト教に思い入れがない人(多くの日本人)からすれば、このプログラムの異様さは「分かりやすい悪」としてエンターテインメントたりえる。

施設での様子はミステリアスかつスリリングで、ハラハラとさせる展開は観客をグッと惹きつける。

その面白さに加えて、家族ドラマがある。

ゲイという存在を認められない父と子の葛藤は、単に父が頑固というだけではなく、彼が信仰に熱い「善人」であることで、興味深くなっている。

単なる善悪の対立にならず、父子が愛し合っているからこそ、「自分の人生を貫くある価値観」を乗り越えるのがどれほど難しいのか、と想像させられる語り方になっている。

父を単に悪者化しないことで、このストーリーが、「ゲイ」や「キリスト教」という個別的な話に閉じることを防いでいる。

父に共感の余地があることで、「信念とその矛盾」という誰もが持ちうる葛藤に寄り添い、想像力を働かせれば、父の苦悩を自分事として考えられる内容になっている。

個人的にとても意識させられたのは、「宗教」のような大きな問題と、「家族」という目の前の問題が対置されたとき、人間は本当の意味で信念を問われるのだ、ということだった。

障害がなければ、なんだって信じられる。抽象的な正義なら、誰でもが語り得る。

自分と深い関わりがない他人に対しては、その抽象的な正義を押し付けることも可能だろう。簡単にルールに従えと言ってしまえるだろう。

しかし、自分の愛する家族が、自分の正義に反する存在となったときに、その「正義」は本当の意味で問われるのだと思う。

端的に言えば、父はキリスト教の「教え」と、息子の「尊厳」を天秤にかけることになる。絶対だった「教え」が揺らぎ。「教え」に従うことが苦痛になる。

ストーリーの結末では、父と子の関係は完全には破綻せず、希望を持たせる終わり方になっている。そこが非常に良かったと思う。

また、家族の話とは別に、大学生になった主人公ジャレッドが、だんだんとゲイである自分の本性に従うように行動し、その中でいろいろな経験をしている様も描かれる。

「矯正」施設スリラー

映画冒頭は、暗い雰囲気の中、青年が自宅を離れ、施設に入所するシークエンスから始まる。

映画のあらすじを読んでいれば、この施設が同性愛を「治す」ことを目的とした異様な施設であることが想像できる。

だが、単に映画だけを見た場合、この施設が何であるのかは分からない演出になっている。

素朴に見れば、遠く離れたよく分からない施設での生活が始まる、という漠然とした不穏な空気だけが伝わってくる。

受付で母が見学したいと申し出ると、それは不可能だと断られる。「いつでも電話して」と見送る母の言葉に対し、受付の男は「電話は預かる決まりになっている」と言う。

よく分からない施設で、こちらの要望が全て却下される。

このようにして、当事者であるジャレッドと、母、両方の不安を、観客が共感できるように描いている。

この冒頭で印象付けられるのは、この施設が「全く不透明な空間」であることだ。

中に入ると、携帯電話や創作用のノートなど私物を次々奪われる。その後、厳しいルールの読み合わせ場面を挟んで、ジャレッドは不安な面持ちで集会部屋に入室。

その後ようやく、「私は性的な罪と同性愛によって神の形の空洞を埋めた」と言うセリフによって、この施設の価値観が明確に示される。

この辺りで、「ああ、ヤバい施設だ・・・」と多くの観客が感じるはずだが、同時に、何か「正常な感じ」も同時に描かれていると感じた。

例えば、受付で「お迎えは夕方5時に」という情報を見せることで、軟禁されるわけではなく、通う形の施設なのだと分かる。

また「12日間のプログラム」だという説明があることで、何はともあれ12日後には解放されるのか、という安心材料もある。

さらに、自称セラピストのサイクスからの初スピーチは、自己啓発っぽい怪しさがありながらもそれなりに説得力がある。

「傷ついても価値は失われない」「破れたら貼り直せばいい」という言葉それ自体は真っ当なものであり、表層的にこの言葉を聞く限りは、ついつい納得してしまうスピーチになっている。

(もちろん、ここで言われている「価値」が「異性愛者であること」なのだから、このスピーチの内実は全く真っ当なものではない)

この「真っ当さ」を裏付けるため、スピーチを聞くジャレッドが熱心に話を聞き、軽く頷く様子を見せている。

サイクスは1ドルを聴衆の1人に渡し、軽く冗談を言って笑いをとる。

この場面では、彼が頼りになるいい「先生」のように振る舞っている。

その次、「男らしさ」を強化する軍隊っぽいキャンプが行われる。これはどう考えても今の感覚からするとズレている。

しかし例えば「できるまでは、できるフリをしろ(Fake it till you make it)」というセリフは、サイクスのスピーチ同様、それなりに説得力がある。

また、握手を拒んで敬礼をした青年に対しては、その意志を尊重する態度を示すことで、完全な押し付けでない様子を示す。

さらにダメ押しとして、ホテルの部屋に帰ったジャレッドが、鏡の前で「男らしいポーズ」を練習するシーンが描かれる。

このようなシーンがちょこちょこ挟まれることで、最初の「異常だ」という印象が少しずつ薄れてくる。

もちろん、観客の目から客観的に見ればこの施設は異常である。しかし、その内部にいる人々にとっては必ずしもそう感じないのかもしれない、という雰囲気を同時に描いている。

この半信半疑の落ち着かない感じが、ジャレッドと母の視点によってうまく体現されている。

話が逸れるが、この映画は、なぜこの施設を一面「正常な感じ」に描いているのだろうか。

言い換えれば、この施設がやっていることを頭から完全に「異常なこと」と描かなかったのはなぜだろうか。

恐らくそれは、問題提起としての機能をより高めるためだと考えられる。

エンドクレジットでも語られるように、このような施設は過去のものではなく、少なくない人々が、今でも「治療」を求めてしまう現実がある。

この映画で施設の「正常な感じ」を描くのは、そのように「治療」を求める人々にも寄り添う気持ちがあるからではないかと思う。

つまり、この施設を単に「異常なこと」と描くだけでは、人々の間に壁を作り、その施設を批判する人が、その施設を利用する人を断罪することにしかならない。

それでは敵・味方を作ってしまうだけであり、問題解決のための問題提起というより、誰かを攻撃するための問題提起となってしまう。

だから、この映画では、この施設に希望を持ってしまう人々の感情も同時に描くことで、単なる断罪を避け、施設利用者への理解をある程度は促す作りにしている。

そのために、ジャレッドは最初「治療」にそれなりに前向き(少なくともそう見えるように描かれる)だし、「治療」を勧める両親も、良い両親として描かれる。

公式ホームページには、原作者であるガラルド・コンリー氏の「問題は、この種の偏狭さが、心の底では愛し合っている人々の間でも絶えず生み出されてしまっていること−。」というコメントが書かれている。

この言葉を見てもわかるように、そもそもが、「”悪者”がこの偏狭さを生み出しているのだ」という視点から書かれたストーリーではないということが分かる。

だから、端々に正常さを感じさせるこの映画の演出は、かなり重要なポイントである。

話を戻すと、「正常な感じ」が描かれつつも、もちろんストーリーが進むに従って、この施設の危なさがだんだんと明らかになっていく。

まず、初日の帰り、私物を受け取るとジャレッドがノートに書いたストーリーの一部が破り捨てられている。

「単なるストーリーなのに」と憤るジャレッドに、職員は「それはサイクスが決める」と答える。

(深読みすれば、この「単なるストーリーなのに」というセリフは、この施設で教育の核になっている「聖書」を暗に批判しているとも考えられる。聖書は絶対視され、ジャレッドのストーリーは破り捨てられる)

初日が終わり迎えを待ちながら、ジャレッドはこのプログラムに熱心に取り組んでいる青年に話しかける。

そこで、このプログラムはあくまで予備プログラムであり、治療が必要なものは「家」に移り住み、本格的な治療を受けるのだと説明される。

ここでは、最初の安心材料であった「12日間」という情報が覆される。

また、キャンプの際、ボールで頭を打った少年の両親が施設に怒鳴り込んでくる。

これによって何かが改善されるどころか、サイクスは治療内容を外部に漏らすのは禁止だというルールを破った少年の行いを責め、その他の参加者にも口外しないよう怒鳴りつける。

サイクスは、最初の「頼りになる先生」というイメージが覆され、独裁的な詐欺師のような雰囲気をまとっていく。

そして、個人面談。ジャレッドは大学で扱う本を否定され、大学に行くよりこの施設で過ごす方が有益だと諭される。

そこでは両親とサイクスが自分の知らないところで情報共有している事実が明かされる。

施設に怒鳴り込んで息子を守った例の両親の姿とは裏腹に、ジャレッドの両親はサイクスに自分の秘密を明かしていた。

その後は他の参加者との関わりが描かれる。

ジャレッドは、青年キャメロンに対して優しく振る舞い、熱心な青年からはその優しさを「真剣さが足りない」と咎められる。さらに優等生かと思われていたある青年が、実は口から出まかせで施設からすぐ出られるように振る舞っていることも知る。

その後、キャメロンに対する虐待じみた場面を目の当たりにし、さらに「家」に送られたサラの姿を垣間見る。

ジャレッドは、自分の罪の告白についてサイクスに咎められ、「父を憎んでいると言え」と責められたことにブチ切れ、ようやく施設から出る決意をする。

ここからハラハラとする脱走シーンが始まる。

ここまできても、ジャレッドを抑えようとした職員をサイクスが「手を出すな」と言って止めるという、分かりやすい暴力は振るわない「正常っぽさ」を描いている。

何はともあれ、最後はキャメロンの助けを借りてジャレッドは施設から抜け出す。

このように、矯正施設はスリラーとして描かれる。

客観的に見れば、(親の勧めとはいえ)自分の意思で入所し、最後は(かなり抑圧的な雰囲気はありつつ)、明確な暴力を振るわれる等はなく、母の迎えで施設から離脱している。

ある意味、ある施設に入所して、途中で離脱した1人の青年の話であって、必ずしも「危険な体験」とはいえない。

しかし、実質的にこれは危険な体験だった、ということを、このスリラー演出で描いている。

父の信念と子のセクシャリティ

先にも書いた通り、この映画では「治療」を求める人の気持ちに一定の理解を示している。

そして、そのような人の象徴として存在するのが牧師である父である。

主人公は父親が自分のセクシャリティを受け入れられない気持ちもそれなりに理解できるからこそ、施設への入所に同意したわけだし、先に書いた「正常な感じ」も、父の感性に対する理解の延長として演出されているはずだ。

この父について重要なのは、彼が「カッコいい父親」として描かれていることだ。

「彼女の家に泊まってもいいか」とモジモジしながら尋ねるジャレッドに、「そうやって大人になっていくんだ」と語り、バスケの打ち上げの際には車をプレゼントしている。

ここでは父を粋な存在として描いている。

つまり、彼がいわゆる「頑固親父」ではない、ということが印象付けられている。

父は熱心なキリスト教徒で牧師だが、とはいえ時代に取り残された人間ではない、というのが、この回想シーンが差し込まれている意味だろう。

「宗教に熱心=時代錯誤」というステレオタイプな見方を退け、その上で、父がジャレッドの同性愛を受け入れられないという現実を、もっと厄介な問題として掘り下げる意志があったのだろうと考えられる。

ジャレッドにとって自分のセクシャリティが重要であるように、父にとってはキリストの教えが重要なのである。

現代の(特に日本人の)感覚からすれば、「個人のセクシャリティ」と「宗教の教え」では、前者の方が優位と感じる人が多いだろう。

しかし、そのような見方だって暴力的といえば暴力的なのであって、現在の常識やマジョリティの意見によって、誰かの信仰を簡単に無価値なもの、悪いものとして貶めていいはずがない。

この映画が良いのは、今の感覚では「悪」と断罪されかねない価値観を持つ人物が「愛すべき父」であることによって、そのような安直な暴力性を回避していることだ。

「施設vsジャレッド」という単純な構図の間に、父(もちろん母も)を置くことで、マジョリティによる「みんなにとっての正義」の暴力にブレーキをかけている。

父にジャレッドのセクシャリティを否定することが許されないように、父の信仰や、長年の情熱を否定することも、簡単に許されるべきではない

そして、父がジャレッドにとって「良き父」であったことも、また否定されない。

というのも、ジャレッドが最終的に施設を出る決心をするのは、「父への憎しみをぶちまけろ」とサイクスに詰め寄られ、それにキレたからだった。

ジャレッドは「父を憎んでいない」と反論することでサイクスの矛盾を突き、この「治療」プログラムから降りる。

ジャレッドを施設に送り出したのは確かに父だったが、同時に、ジャレッドが施設の論理に屈しなかったのは、「絶対に父を憎んではいない」という確信だった。

父が「良き父」だったからこそ、ジャレッドは自分を守れたのだ。

そこに事態の両面が端的に現れている。

この厄介さが噴出するのがラストの父子会話シーンである。

ここで2人の間にある問題がかなりクリアに整理され、父には重い選択が突きつけられる。父は「努力する」とだけ言う。

そして、ジャレッドも父をクリスマスに招待し、関係を繋ぎとめる努力をする。

仲直りでハッピーエンドとはいかない、スッキリとは解決しない終わり方である。

しかし、そこに誠意がある終わり方だと思う。

父はジャレッドのセクシャリティをまだ認められないが、彼が教会での説教に使っているペンをジャレッドに渡す。

つまり、これからの世界で人々を導くべきは、自分のような価値観の人間ではなく、ジャレッドの方なのだろうという気持ちがそこに現れている。

父は、自分自身が変わることは難しいと思っているけれど、しかし社会はそちらに行くべきだと感じている。

そこに父の誠実さを感じることはできる。

意味合いとして重要なので父の話ばかりしているが、ストーリー的に重要な役割を果たすのは母の方である。

ストーリーを通して、ドラマチックな変化を果たし、ジャレッドを施設から救い出すのは母なのだから。

サイクスとの個人面談の日、ジャレッドは帰りの車内で不機嫌になり、母に不満を漏らし、ランニング中に広告ポスターに怒りをぶちまける。

ここで母との信頼関係が切れるかと思いきや、部屋に帰ると母は施設で使うノートを勝手に読んでいる。

これは、プライバシーに勝手に踏み込むという意味では施設の職員がやったことに等しいが、内実は全く違う。

なぜなら、母のこの行動は息子を思う愛ゆえに生じた行動だったからだ。

このように書くと、「愛ゆえの行動ならなんでも良いのか」という感じもするが、もちろんそうではない。

父がジャレッドを施設に送り込んだのも、恐らく愛ゆえなのだから。

この映画を見ていて思うのは、「愛ゆえだから良い」「宗教だから悪い」という形式的な判断ができない現実だ。

ある時にはプライバシーの侵害であり、ある時は子を守るための監査である。

常に内情を見るべきだと思わされるし、そして、そのことがセクシャリティに関して、この映画が観客に訴えるメッセージでもあるのだと思う。

母との印象的な会話として、ドライブ中に窓から腕を出す描写がある。

ジャレッドが腕を出すと母はそれをやめるように言う。母はそれによって事故で腕を失うかもしれないと心配してジャレッドを注意するのだが、ジャレッドは「本当にそんな事件があったの?」と訝しがっている。

これは「迷信」の象徴だ。

本当にそんなことがあるのかどうかは分からないが、そうだと思えること。そう思うことによって人々の行動を抑制したり、他人に行動を改めさせたりする原動力になるもの。

つまりは「同性愛は悪いものだ」という思想のようなものとして、この窓から腕を出す行為が描かれている。

だから映画のラストシーンは、ジャレッドが窓から手を出して車を運転するシーンで締め括られている。

ジャレッドの成長

対外的な問題を通して、ジャレッドの内面の成長も描かれている。

序盤の教会のシーンで、父の説教に合わせて聴衆が手を挙げるシーンがある。ジャレッドは、周囲の人々が全員手を挙げるのを見た後に、遅れて手を挙げている。

このシーンで、ジャレッドが周囲を気にしながら生きているタイプの人間だとわかる。

さらにいえば、ジャレッドはゲイであるにもかかわらず、高校で女性と付き合っている。

ジャレッドは、自分を押し殺しながら生きている。それがジャレッドの弱さで、このストーリーでは、それが「ゲイの否定」と対応している。

成長前のジャレッドは、その弱さゆえに父の提案を聞いて施設への入所を了承し、プログラムに真面目に取り組む。

施設での日々により、自分が気にしていた「周囲」の欺瞞を目の当たりにし、サイクスに反論することで弱さを乗り越える。

とはいえ、同性愛を扱った映画でありながら、セクシャリティに対する葛藤は弱い。

もちろん葛藤はある。

ジャレッドは、施設入所後はそれなりに「治療」に熱心であるようなそぶりもみせる。

だが、入所前の医師とのカウンセリングシーンを見ると、この葛藤を強く描こうとしてはいないことが想像される

そこで医師は「あなたは正常だ」とジャレッドを勇気づけている。

ジャレッドはこの時点では訝しげな顔をしてはいるが、彼は入所前から、自分のセクシャリティについて正当性を得ているのであり、それはクライマックスに向かって確信に変わっていくとはいえ、大きく変化することはない。

つまり、ジャレッドは最初から最後まで自分のセクシャリティについて大きく考えを変えることはないわけで、観客の中に「ドラマが弱く退屈」と感じる人がいるとすれば、それはこの変化の小ささが原因かもしれない。

この映画で描かれるジャレッドのセクシャリティに関する葛藤は、「違和感から確信」というくらいの変化であって、あまり大きな変化ではない。

先にも書いた通り、父との葛藤がメインだと考えるなら、ジャレッドのセクシャリティはこのメインの葛藤の前提でなければいけないので、ジャレッド自身が自分のセクシャリティについて思い悩むという要素は本筋ではないからあまり描かれていないのだと思う。

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