映画

アリスのままで -記憶と共に失われる自分自身と彼女の世界-

概要

優秀な言語学者であるアリス。医師の夫と3人の成人した子供達がおり、充実した人生を送っていた。

アリスはちょっとした物忘れに悩まされていた。ある日、見慣れた大学のキャンパス内で道に迷ってしまったのをきっかけに、病院で検査を受ける。そこで、若年性アルツハイマー病だと診断される。

家族はアリスを優しくサポートするが、アリスは少しずつ記憶を失う不安な日々を送る。アリスは元々の知性の高さでどうにか生活を維持しようとするが、病は彼女の努力を上回るスピードでアリスからキャリアや日常生活を奪っていく。

みんなのレビュー

高評価

  • 順風満帆な人生を歩んでいた主人公が突然難病になるストーリーに、人生の不確かさが実感でき、考えさせられる
  • 難病モノながら、お涙頂戴的なストーリーではなく、比較的現実的に家族や病気に直面する主人公の様子を描いている
  • 記憶と共に自分自身が失われていく絶望感に共感できる

低評価

  • 家族の行動(特に夫)が冷たく感じる
  • ドラマチックな展開がなく、ストーリーとして単調
  • 救いがなく、観ていて辛い

ナニミルレビュー

オススメ度:A

こんな気分の時オススメ:アイデンティティについて考えたい時。人生の巡り合わせについて考えたい時。難病に苦悩する主人公のストーリーが観たい時。家族について考えたい時。

良い点!

記憶を失っていく聡明な女性アリスを描くことで、人生について、社会について、家族について、運命について、そしてこの「私」について、いろいろと考えさせられる作品になっている。

病が進行していく度、アリスの自分自身に対する感覚や、家族のアリスに対する態度が変化していき、記憶というものが、自己認識や人間関係にどう影響しているのかを考えさせられる。

もちろん「自分がアリスだったら」と想像せずにはいられない。さらに、2人の娘がそれぞれアリスに対して違う距離感を持っており、その2人を通して「自分が家族の立場だったら」という視点もしっかり提示する内容になっている。

最初の段階では、病人のアリスが1番辛く、次にそれを見守る家族、という構図だったものが、アリスの病気が進行していくほど、アリスの辛さは分からなくなり、むしろアリスを支える家族の辛さに重心が移っていくような展開になっている。

基本的には悲劇的なアリスの視点を描きながら、アリス自身、アリスと社会、アリスと家族、と様々な側面を描いていく素晴らしい作品。

イマイチな点・・・

静かで淡々としたストーリーなので、難病物特有のロマンチックな展開や、人生の最後を飾るドラマチックな展開を期待すると、ガッカリするだろう。

この映画はむしろ、アリスの病気にも関わらず、世界は(家族も含め)それまで通り回っていくんだよな、という淡白さを描いている。

そして、アリス当人も、過剰に取り乱したり、激昂したりするのでもなく、その世界の一部として回り続けようとする。しかし、着々と病気は進行していき、アリスがその回転から取り残された時には、もうドラマチックさを期待する力がない、という感じ。

なので、単調といえば、単調。しかし、その単調さの中にある細かい揺らぎにこそ味わう部分があるような映画。

世界とのつながりを失っていく不安と絶望

この映画は、難病もののわりには比較的淡々とした雰囲気の映画である。

アリスは病気によって大恋愛するわけでも、人生最大のバカンスを楽しむわけでも、家庭を崩壊させるわけでもない。

代わりにこの映画は、病気の進行と共に、アリスがだんだんと世界とのつながりを失っていく様を描いている。

まずキャリア、その次に家族以外との人間関係、最後には家族や自分自身、という順に、アリスは世界とのつながりを失っていく。

アリスの病気は、ちょっとした単語が出てこない、というところから始まる。これ自体は普通の人でもあるような大したことない問題だ。

しかし言語学者のアリスにとっては、言葉が出てこないというのは、積み上げたキャリアのひとかけらが崩れていくような感覚だっただろう。

アリスは自分で単語クイズを行い、自分からこぼれ落ちる言葉を必死にすくい上げようとする。その一方で、一度挨拶した息子の彼女に「初めまして」と言ってしまう。

その「初めまして」が、アリスが初めて世界の一部を失った瞬間だ。

それまでは、単に自分の頭の中の記憶が消えていっただけだった。息子の彼女を忘れたアリスは、そこで初めて人間関係の一部を失った。

この挨拶のシーンは、問題の一部を注視していたら、実はあっちにもこっちにもほころびがあり、本人が気づかぬうちに、背後でどんどん世界が崩壊していくような怖さが本当に上手く描かれている。

その後もアリスの病気は進行し、彼女は大学での講義中、自分が用意した資料がどれか分からなくなってしまう。

アリスは冗談まじりで学生に質問し、臨機応変にその問題を回避する。しかし、それはアリス本人が回避したつもりになっていただけで、実は学生たちはアリスの言動を支離滅裂なものとして受け取っていたことが、あとあと分かる。

こうしてアリスの主観は、客観から乖離し始める。

自分では上手くやっているつもりなのに、周りからは下手をしているのがよく分かる。

こうやってアリスはキャリアを失う。

映画はアリスの主観で語られるから、アリスの「なんとか上手くやっている」という視点に観客は共感する。

しかし、周囲の人間からの指摘によって、観客はアリスと共に、自分の実感とは真逆の現実を知ることになる。

周囲の視点と乖離した、病に侵された人の主観が、映画を観る観客にも想像できるような作りになっている。

アリスの自己イメージはどんどん曖昧になって、自分に自信が持てなくなってくる。

それでアリスは人と関わるのが億劫になり、ある日、夫と約束していた社交ディナーの約束をすっぽかす。

自分では普通に振舞っているつもりなのに、周りからは厄介者に見えているなんて分かったら、誰でも人に会うのが億劫になるだろう。

アリスはこのとき「ガンだったらまだよかった」と言い出す。ガンなら、まだ自分で自分のことがわかるからだ。

こうやって、アリスは少しずつ自分自身を失っていくと同時に、家族以外との人間関係を失ってく。

アリスと夫ジョンは、海辺の別荘に出かける。

そこでアリスは、よく知っているはずの家の中で、トイレの場所を見つけられずに失禁してしまう。

ここでは、失禁という事態の悲しさもある一方で、アリスが徐々に周りの世界との繋がりを失っていることが上手く描かれている。

アリスは、廊下に面した部屋のドアを次々開け「ここじゃない、ここじゃない」という風にトイレを探す。

ここで、最初に確認したドアを最後にもう1度開けているシーンがある。つまり、アリスはもうすでに自分の行動を全体として捉えられていない。「ついさっき」と「今」がもう別々の出来事になってしまっている。

「ドア」という工業製品を使って、馴染みある場所が、同じ製品が並んだランダムな空間に見えているというアリスの混乱が描かれている。

さらに後日、アリスは夜中に突然スマホを探す。この行動自体も変だが、さらに変なのは、彼女が食器の引き出しや小銭を入れている瓶など、スマホを入れるはずがない場所を探していることだ。

彼女はもう「普通、スマホはこういう場所に置くだろう」という、世界に対する常識を失っている。そして自分がそういった常識を失ってしまったことも分かっている。

アリスは、何がどこにあっても、自分が何をどう扱っていてもおかしくない世界に生きている。

アリスがトイレやスマホを探す描写から、アリスの見ている世界が、いかに混沌としているかが想像させられる。

アリスにとっては、もう世界に当たり前のことはなく、昨日の自分と今日の自分に繋がりがなく、当然、自分と家族との繋がりも、チグハグなものになっている。

記憶を失っていくことは、最初の段階では、ちょっとした恥ずかしさでしかなかった。それが、だんだん人間としての能力の問題になってくる。

そこまでは、アルツハイマー以外の病気でもありえる苦しみだ。

しかし、アリスはよく知っているはずの場所や、自分にとって重要な記憶を失っていく。それは、アイデンティティを失っていくこととイコールになっている。

人間のアイデンティティが、いかに周りのものとの関係によって定義されているかがよく分かる。

アリスは「言語学者」「リディアの母親」「この家に住む人」というような、自分を定義している関係性をどんどん失っていく。

そして、最終的には「自分」というものを失ってしまう(少なくともそう見える)。

アリスの変化を見ていると、世界を失うことは自分を失うことであり、「自分」というものは世界によって定義されているんだな、ということが伝わってくる。

そして、最終的には「自分は誰?」と絶望する「自分」すらいなくなってしまう。

家族の態度と時間

アリスがアルツハイマーの診断を受け、だんだんと病気が進行していく中で、家族の態度ももちろん変化していく。

特徴的なのは、2人の娘アナとリディアの態度の差だ。

長女アナはいわゆる優等生、次女リディアは俳優を目指す夢追い人で、アリスの「大学へ行け」という提案も聞かず、劇団で演劇に出演する生活を送っている。

食事の席で、リディアの舞台の日時と場所をアリスがスマホにメモするシーンがある。このシーンは、姉妹のアリスに対する対照的な態度を明確に示すシーンになっている。

1度の説明では情報を覚えられず、何度も情報を繰り返し尋ねるアリス。リディアは聞かれるたびに説明してあげるが、アナはアリスを止めようとする。

リディアは、自分のスケジュールを管理しようと努力するアリスを助け、アナは「自分たちも一緒に行くからメモしなくていい」と、アリスの無駄な努力をやめさせようとする。

この時点で、アリスはアナにとってはサポートするべき重荷であり、リディアにとってはまだ母親であることが分かる。

リディアは大人気なく病気のアリスとケンカしたりする。最後までアリスを1人の人格として見ているからこそ、リディアはアリスの言動に怒ることができる。

アリスがほとんど喋ることもできなくなっても、リディアはアリスに戯曲を読み聞かせ、「どう思う?」と真剣に聞いている。

一方でアンは、表面的にはいい娘として振舞っているが、病気の進行と共に、アリスからどんどん距離をとっていく。

アリスとアナは、お互いの暇を見つけてアプリゲームのスクラブル(単語を並べ、文字数の長さでポイントを競うゲーム)をやることで親子のコミュニケーションを取っていた。

アナがある時からこのゲームをプレイしなくなるのは象徴的だ。

しかし、このアナのアリスに対する態度を、冷たい態度だと切って捨てるのもまた酷だと思う。

アナは、スクラブルで、日に日にアリスの出す単語が小学生レベルの単語にまで落ちていく様子を見て、アリスの衰えを感じ取っていたはずだ。それを見るのが辛くてゲームのプレイをやめたのだろうと想像できる。

そして、遺伝性のこの病気の検査を行い、アナは自分が陽性だったことを知っている。つまり、自分もこのままいけば、いつかはアリスと同じ症状を発症するのだと知っている。(リディアは検査を受けていない)

アナからすれば、能力を失い、自我を失っていくアリスを見ることは、運命付けられた自分の将来を見ることと同じだったはずだ。

だから、衰えていくアリスを見ることは、アナにとって、夫ジョンや他の兄弟以上に苦しいことだったはずだ。

しかし、こういう苦しみも、家族の日常の中に吸収されていく様子が終盤では描かれる。それがこの映画の肝だと思う。

アリスがアナの名前を間違えても、アナはごく自然に訂正し、もうこれが当たり前だという風になっている。

そして、アリスが探していたスマホが冷蔵庫の中から見つかり、アリスが「昨日探してたのよ」と言うと、ジョンがアナに「1ヶ月前の話だ」と耳打ちする。

こうして、悲劇的だったアリスの変化さえ、時間経過の中で、もう日常の当たり前になった様子が描かれている。

そこに「生活」というものの強さが表れているように思う。

病気はある意味ドラマチックだが、ドラマはずっとは続かない。病気が治らなくても、それは「生活」に吸収され、日常になっていくのだな、と感じずにはいられない展開になっている。

クライマックスに差し掛かるあたりで、アリスが感動的なスピーチをするシーンがある。あそこを映画のラストシーンにすることもできたはずだ。

そうすれば、この映画はもっとドラマチックで感動的な映画に仕上がっていただろう。

でもあのシーンは、シンデレラで言うところの結婚の場面だ。結婚はゴールではなく過程に過ぎない。

スピーチの次のシーンで、ジョンは新しい仕事のチャンスの話をする。最後の時間を過ごすため「1年休暇を取って」とお願いするアリスに、「今後のことを考えるとお金も必要だ」と現実的な話を切り出すジョン。

アリスのスピーチはゴールではなく、その後もアリスと家族の人生は続いていく。ドラマチックなところで終わらせず、その後、病気が日常化した場面まで描いていることで、この映画は深みを増している。

運命

若年性アルツハイマーと診断された瞬間から、アリスは自我を失っていくという運命を背負うことになる。

アリスは、病気がある程度進行した時点で未来の自分へのメッセージを残し、その運命に対処しようと試みる。しかしそれにも失敗し、結局運命に飲まれてしまう。

この映画は、これを単にアリスに起こった病気とせず、遺伝性のアルツハイマー病とすることで、人間の運命について、ある側面を照らし出している。

アリスは子供達に遺伝子検査を勧め、アナは陽性、息子トムは陰性と分かり、リディアは検査を拒否する。

アナが同じ病気を発症する可能性は100%であり、アナはアリスと同じ将来を迎えるという運命を背負ってしまう。(もちろん、アナの時代には治療が可能になっているのかもしれないけど)

興味深い点は、アリスの両親である。

アリスのこの遺伝子は、父親から引き継いだものだろうと説明される。父親は死に際、言動が支離滅裂で失禁していた、とアリスは説明する。不幸なことにアリスもその通りになってしまっている。

では、遺伝子が正常だった母親はどうなったのか? 母親は、アリスの姉と共に交通事故で死んでいる。

変な話だが、もし交通事故にあったのが父親だったら、おそらくアリスと同じように苦しんでいた父親は、アルツハイマーを発症しなかっただろう。

さらに、アリスの姉はこの遺伝子を持っていただろうか? それは半々の確率なので分からないが、アリスが持っていたなら、確率的に姉は持っていなかったかもしれない。持っていなかったとすれば、姉は正常な遺伝子だった。にも関わらず、事故によって不幸にも亡くなってしまったのだ。

そして、「確率的には」と今考えたが、この考え方自体が人の人生を考えるときには無力だったりする。

遺伝子を受け継ぐ可能性は50%だが、個人の視点から見れば、受継げば100%でしかないし、受け継がなければ0%でしかない。

それは事故に遭う確率がどんなに低くても、事故で死ぬ人は死ぬのと同じだ。

この映画は、自分ではどうしようもできない「病気」や「遺伝子」や「事故」を描くことで、自我と世界の奇妙な関係を浮き彫りにしている。

確かに人間は「自分の人生を生きている」と感じながら生きている。

しかし実際は、自分ではない誰かの遺伝子によって生まれ、自分の行いに関わらず病気になり、確率に関わらず死ぬときは死ぬ。

自分の意志とは関係ない物事が、自分の人生に割り込んでくる。いや、そうではなくて、実はそういう自分の意志とは関係ない物事の間にできた「隙間」のことを、ぼくたちは「自分」と思っているだけなのかもしれない。

見終わると、そんなことを考えざるを得ないような、とても面白い映画。

レコメンド作品

レイチェルの結婚

あるメンバーに問題がある場合の、家族同士の微妙な距離感を描いたストーリー

歩いても 歩いても

家族に流れる微妙な関係性を描いた作品