概要
出版社で働く冴えない男:馬締は、編集長に引き抜かれて辞書編集部に配属される。辞書編集部では新しい辞書「大渡海」の企画が立ち上がり、編集作業が進む中、編集長が定年退職。残された馬締らがその仕事を引き継ぐ。
無口でコミュニケーション下手な馬締だが、言葉にはこだわりがあり、辞書づくりの魅力に取り憑かれていく。
10年以上かかるのが当たり前で利益の薄い辞書作り。企画が流れそうになりながらも、馬締らはどうにか局長を説得し編集作業を続ける。さらに監修者の松本が病に倒れ、馬締は松本に完成した辞書を見せたい一心で寝食を忘れて作業に没頭する。
レビューの印象
高評価
- 「辞書づくり」という題材が新鮮。かつ、その仕事にたずさわる人々の熱い思いや信頼感を感じられる
- 困難や悲劇はあるが、悪人や絶望的な展開はない、温かい世界観でほっこりする
- 個性的な主人公を理解し、支える周囲のキャラクターとの関係性がよく、それによって成長する主人公も見られる
低評価
- キャラクターの内面や人間関係にリアリティを感じられない
- 展開がのっぺりとしていて退屈
- 題材の取り上げ方、ドラマ、キャラクターの掘り下げがどれも中途半端で深掘りできていない印象
ナニミルレビュー
オススメ度:B
こんな気分の時オススメ:辞書作りの現場を観てみたい時。寡黙で人見知りな主人公の奮闘が観たい時。長い時間をかけた仕事を描くストーリーが観たい時。
全体的なレビュー
「辞書づくり」という題材自体が新鮮で、とても興味深かった。
用例採集から見出し語の選定、紙選びなども含めて、主人公の馬締や、のちに配属される岸辺の視点を通して「大変そうだなぁ」「細かいなぁ」「そんなこだわりがあるんだなぁ」と感心しながら観る楽しさがあった。
コミュニケーション下手で冴えない馬締が、一緒に働く同僚、下宿先の大家、その孫娘で恋仲になる香具矢など、それぞれのキャラクターとの関係を通して、一歩一歩成長していく様子も丁寧に描かれている。
出版社の中でもメインストリームから外れた「辞書づくり」という仕事に魅了される人々のマニア感、オタク感を見る楽しさもある。馬締が監修者の松本と街で仲良く用例採集をし、女子高生に気味悪がられているシーンも微笑ましい(だからこそ松本の病がドラマとして効いてくる)。
終盤では、出版予定日や松本の病など、タイムリミットを設けて作業シーンをスリリングに展開している。
題材の面白さ、丁寧に描かれる主人公の成長、人間関係の心地よさが上手くまとまっていて、ウェルメイド感がある映画になっている。
ただ個人的に、香具矢との恋愛に関しては、馬締が甘やかされ過ぎていると感じる。そのほかの人間関係もリアルには感じない。物語として心地よいという感じ。
香具矢がスーパーウーマン過ぎる。板前として働く自立した女性で、寡黙に馬締を支える良妻で、さらに口下手な馬締を「面白い」と愛してくれるなんて、さすがに都合が良過ぎる。この都合の良さゆえ、香具矢の内面が薄く、結果ロマンスが薄っぺらく見えるのがちょっと残念。
辞書づくりの面白さ
出版の仕事の中でも「辞書づくり」というマイナーな仕事が題材。
マイナーな仕事ながら、ストーリーの題材として、大多数の人が面白がって見られる題材だ。
というのも、辞書自体は誰もが知っている馴染み深い出版物であり、この映画を観る人は全員「言葉」を使っているからだ。
だから、主人公の馬締が辞書編集部に配属され、そこで辞書づくりを説明されたり、言葉に興味を持ったりする過程に、わりとスムーズに感情移入できる。
「辞書づくり」という仕事自体はマイナーでも、「辞書」や「言葉」というモチーフ自体はメジャーなものなので、大多数の人が楽しめる題材だと思う。
序盤では馬締を通して、終盤では新しく配属される岸辺という女性社員を通して、辞書づくりの大変さ、面倒くささが説明される。
とにかく数に圧倒される。
編集部の資料室にある単語カードの数は100万以上。馬締らが辞書づくりのために扱っている単語の数も万単位。企画が立ち上がって完成するのにも5年や10年単位で時間がかかる。
商品サイクルが早いこの時代にあって、10年以上の時間をかけてコツコツと作られていく商品があり、そこに人生の大きな部分を捧げている人がいるんだなぁ、と思うと興味深い。
局長に企画を潰されそうになった時、西岡が「出版社の人間が20年先ぐらい見ないでどうするんですか。なんのために紙媒体やってるんですか。何十年、何百年先に残すためでしょ」と語って局長を説得する。
このアツいセリフの中に、映画を通して描かれる馬締の仕事の奥深さが現れている。
そういえば以前、大学の講義である教授が「過去の文献を読むときに、その時代の辞書がないとが正確に読むのが難しい」と言っていたのを思い出した。
普通の人が思っている以上に言葉は生き物で、映画序盤で監修者の松本が語るように、「言葉は生まれ、中には死んでいくものもある。そして生きている間に変わっていくものもある」。
だから、新しい辞書を作ることには意味がある。辞書にはその時代が詰まっている。
仕事としての辞書づくりだけではなく、そもそも言葉を定義することの面白さ、不思議さもこの映画では描かれる。
象徴的な展開として「右」をどう定義するか、という問題が作中で2度出てくる。
1度目は、編集長の荒木が馬締に「右という言葉を説明できるかい?」と質問し、辞書編集部で使えるか人物かどうかをテストする場面。
2度目は、辞書づくりが大詰めになった頃に、自分たちが作る辞書では右をどう定義するか、他の辞書ではどう定義されているか、と話し合う会議シーンが映し出される。
そもそも言葉を言葉で説明することの奇妙さ、面白さが「右」という言葉を利用して描かれている。
また、「まさに言葉は生き物だ」と感じさせる場面もある。
監修者の松本は企画会議で、ら抜き言葉や若者言葉など、一見乱用と思える言葉も出来るだけ辞書に収録したいと話す。
ファッション雑誌の部署から配属された岸辺は、ファッション関係の単語の定義を見て「何年前のファッション情報なの」とうんざりしている。
香具矢に一目惚れした馬締は「恋」という言葉の定義を試みるがうまく文章が書けず、恋が成就したときに、スクリーンに「恋」の定義が映し出される。
企画会議で、監修者の松本が語るセリフが象徴的だ。
「言葉の意味を知りたいとは、誰かの考えや気持ちを正確に知りたいということです。それは、人と繋がりたいという願望ではないでしょうか」
辞書づくりという仕事の興味深さ、さらに、言葉を定義していくこと自体の不思議さを、「右」の定義や、キャラクターの苦悩や思いを通して面白く描いている。
馬締の成長
言葉を扱う仕事を題材としたストーリーにぴったりと合う主人公として、口下手、コミュニケーション下手な馬締が描かれている。
ストーリー上で出会うキャラクターたちとの交流を通して、馬締は一歩ずつ成長していく。
全く冴えない、仕事のできない男(明らかに向いていない仕事をさせられていたので仕方ないのだが)だった馬締は、辞書編集部に配属され、松本の熱意ある辞書への思いを聞いて、辞書づくりに魅せられていく。
さらに馬締を引き抜いた荒木に指導されながら仕事を覚え、荒木の定年退職を機に荒木の仕事を引き継ぐ。
ここまでで馬締は仕事の能力を伸ばしていく。
同僚の西岡は、コミュニケーションが下手な馬締に苛立ち「俺のことバカにしてねーか?」と言って一度ケンカになる。
その後、馬締が下宿先の大家タケに「自分には他人の気持ちが分からない」と相談すると、「他人の気持ちが分からないのは当たり前、分からないから興味を持つ。分からないから話をするんだ」と言われ、馬締はそれを機に西岡とコミュニケーションを取る努力を始める。
そして、下宿先に香具矢が引っ越してくる。香具矢への恋を通して、馬締は自分の気持ちを相手に伝える勇気を持ち、香具矢に実直に告白する。
こうして馬締は相手に自分の気持ちを伝えるコミュニケーション能力を獲得していく。
さらに、馬締は主体性を持ち始める。
辞書づくりでも「現代語の語釈を西岡さんに書かせたらどうか」と提案したり、帰り道で西岡とその彼女を誘って自分の部屋で飲んだりする。
そして12年時代が飛び、馬締は辞書編集部の主任になり、辞書づくりの責任者になっている。
新しく配属された岸辺に仕事を教え、大きなミスが発覚した際、自分の責任だと謝罪し、一緒に働く同僚に気まずいお願いをする。同僚は一瞬ためらうが、アルバイトの学生が「やりますよ」と声をあげたのを皮切りに、馬締についてきてくれる。
いかにも頼りない、冴えない男だった馬締が、コミュニケーション能力を獲得し、主体性を獲得し、最後には人望も手に入れる、という成長物語がしっかりと描かれている。
しかも、登場するキャラクターそれぞれから1つずつ成長を与えてもらうような、無駄のない(ある意味できすぎた感のある)展開になっていて、丁寧なストーリーになっている。
成長しつつも、馬締の雰囲気があまり変わっていないのも良い。個性は変わらないまま、社会人として成長している、というキャラクターも意外と珍しいのかもしれない。
馬締と西岡のバディ感、辞書編集部の部室感
出版社に勤めるサラリーマンのストーリーなのだが、学園モノのような青春感が流れているのも、この映画の特徴。
そもそも辞書編集部のオフィス自体が、適度に狭くて部室のようであり、さらにメンバーも5、6人。学園日常系アニメで見るような舞台が用意されている。
無口な馬締と対照的に口巧者の先輩西岡。
あまりにもぶっきらぼうな馬締の態度に、西岡ははじめ苛立ち、飲み会の帰りに怒りをぶつける。それに反省した馬締は西岡と積極的に会話するように努力し、2人はだんだん仲良くなっていく。
出勤の道中で、2人ともお互いに後ろから突然声をかけて相手をびっくりさせるという子供っぽいイタズラをしている。
この映画はやたら出勤シーンが楽しそうなのだが、出勤シーンを楽しいものとして描いているのは、かなり斬新なのではないかと思う。まるで登校シーンのように描かれている。
西岡は途中で他部署に異動になってしまうが、それでも2人の関係が続いているのも、逆に幼馴染感が出て心地よい関係になっている。
さらに馬締が香具矢に恋をすると、西岡は馬締の目の前で「まじめ」「かぐや」と相合傘を描いて、馬締をからかっている。
そのからかいを、しっかり者の先輩社員の佐々木が注意する。そして香具矢の顔を見ようと、編集部全員で香具矢の働く店に出かける。放課後にみんなで遊びに行くかのように。
さらに、そもそも馬締の香具矢に対する一目惚れも中学生の恋愛のようで、おばあちゃんに促されてデートに出かけるという展開も、なんとも甘酸っぱい。
終盤近くで作業のミスが発覚し、アルバイトも含めて編集部に泊まり込みで作業する場面も、文化祭準備期間のようなワクワク感、高揚感がある。
サラリーマンのキャラクターたちでありながら、学生時代のような雰囲気や関係性を心地よく描いている。
辞書づくりに励む馬締たちのストーリーは、部活に打ち込む学生のストーリーと同じ形で描かれている。
ある飲み会の帰り、西岡が馬締に「先生(監修者)アツいよなぁ。あの歳になっても青春してるってある意味すげぇよ」と話す。
この映画は、まさに青春として仕事をやっていることのワクワク感を描いていて、そこが魅力になっている。
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