概要
脚本家としての成功に満足できず、小説家を目指して執筆に勤しむギル。ギルはパリに憧れ、芸術家たちが切磋琢磨した1920年代のパリに生まれたかったと語る。
ギルは婚約者のイネズとその両親と共にパリを訪れる。パリに住みたいというギルに対しイネズはマリブに住みたいという。そして、パリで偶然出くわしたイネズの友人夫妻との交流も、ギルには退屈で疲れるものであり、ギルとイネズはどこかギクシャクしている。
ある夜、疲れたギルはイネズらと別れ、パリの街を散歩する。そこにある車が止まり古風な格好をした陽気な人々が現れる。ギルは言われるがままに車に乗りあるパーティに参加すると、そこにはフィッツジェラルドと妻のゼルダがおり、そのパーティーはジャン・コクトーが主催したものだという。
ギルは、彼が夢見ていた1920年代のパリにタイムスリップし、憧れの芸術家たちと交流する。執筆中の小説を批評してもらい、ピカソの愛人と恋に落ちる。
現代と過去を行き来しながら、ギルは自分の人生について、決心を固めていく。
レビューの印象
高評価
- 人々が持ちがちな過去への憧れを、映画的な方法で乗り越えさせるストーリーが面白い
- メッセージに対して、明快な設定やキャラクター配置で見易く、ノスタルジックなパリでの切ないロマンスもあり最後まで引き込まれる
- 過去へタイムスリップして、有名な芸術家と交流する世界観や展開が楽しい
低評価
- ネタにされている芸術家についてある程度知っていないと、イマイチ面白さを理解しきれない
- そもそも主人公の悩みに共感できず、作品のメッセージも陳腐に感じる
- キャラクターの設定にリアリティがない
ナニミルレビュー
ポジティブ
憧れの時代にタイムスリップし、憧れの芸術家たちと交流する。そんな妄想を実現させた夢のある作品。
現代のパリと20年代のパリのおしゃれな雰囲気(おそらく、外国人が期待するパリの雰囲気)、そして芸術家たちの個性的なキャラクターが生き生きと描かれ、映像や人物を見ること自体が楽しい映画になっている。
さらに、主人公ギルが、憧れの芸術家との交流を通して自分の生き方を迷いないものにしていき、さらに終盤では、憧れはあくまで憧れであって、自分は自分の人生をしっかり生きるべきだ、という心境に着地していく点も、ドラマとして筋が通っている。
また、ロマンチストなギルと、物質主義的なイネズらの対比も、上流階級を皮肉ったコメディとして痛快に描かれている。
ネガティブ
パリにも芸術家にも興味がなければ、面白さ半減だろう。
しかし、コメディとして、ヒューマンドラマとして、筋はちゃんとあるので、「アートに興味ない」という理由で見ないのはもったいないかもしれない。
また、上流階級のいやーな感じが誇張されて表現されていたり、ギルが異常にスムーズに芸術家のコミュニティに馴染んでいったりする様子からしても、あまりリアリティのある人間ドラマではない。
キャラクターにしても、その関係性にしても、舞台にしても、全体的にデフォルメされた世界観なので、人物たちのリアルな内面が描かれていることを期待すると肩透かしを食うだろう。
ギルの決意
ギルは脚本家としては成功を収めており、セレブ一家の娘であるイネズと婚約し、はたから見れば人が羨むような成功者である。
しかし、ギルは自分の書いている脚本に満足しておらず、もっと深い物語を描きたいと思っている。
ギルは、イネズの母親が傑作映画を見たが、誰が出ていたのか忘れた、という発言を聞いて、「傑作だけど忘れる(Wonderful but forgettable)、そんな映画ばっかり」と皮肉を言っている。(それを映画のキャラクターが言っている、という皮肉のレイヤーがもう一段重ねられている)
この映画は、アメリカ(物質)とパリ(ロマン)の対立構図と、その中間点でどちらに行こうか悩むギルの姿をメインに描いている。
イネズを含め、イネズの家族は、物質主義の金持ちであり、消費社会アメリカの象徴のような人物として描かれている。
面倒を避けてパリを観光し、値段の高さで物の価値を計っている。
ギルとイネズが婚約者である、という設定は、ギルがまだ消費社会との間に強いつながりを持っている、ということの象徴である。
ギルは、ロマンチックにパリ観光を楽しもうとしたり、高い買い物を控えて倹約しようとイネズに提案したりする。
ギルはそうやって反物質主義的な態度を取っているが、結局はイネズと婚約しているのだ。
ストーリーを通して、このセレブ一家たちのしょうもない様子が描かれていく。
さらに、イネズが憧れるインテリとして登場するスノッブな友人ポールも、結局はどこかで仕入れた知識を吐き出しているだけの空っぽの人物、という形で描かれている。
ポールの知性は、使うものではなく、見せびらかすためのものとして、このストーリーの中では描かれているのだ。
一方、ギルがタイムスリップした先の芸術家たちは、一見不可解な会話を繰り返しながら、実際に作品を作っている。彼らの作品は、2000年を過ぎてもなお価値を保っている本物である。
そして彼らは買い物ではなく、会話やダンス、作品づくりを楽しんでいる。
この現在と過去、2つのグループが対比されながらストーリーが進行していく。
最終的に、ギルはアメリカでのキャリアを捨て、イネズと別れ、パリに残ることに決める。
こうしてギルは、自分の信念に従った生き方を選択する。
さらに重要なのは、ギルがパリの過去ではなく、パリの現在に住むことを決めたことだ。
ギルは、過去の芸術家たちとの交流を通して、結局、人はどの時代にいても自分の時代に不満を持ち、それによって過去に憧れているのだと気づく。
そして、ギルは、「いいものを書くためには、幻想を捨てなければいけない。過去への憧れも幻想の1つだ」と学び、過去にタイムトラベルするのをやめる。
ギルは、物質主義的な価値や、ひけらかされるだけの知識という、空っぽの情報に取り憑かれる周囲の人々違和感を持っていた。
しかしギル自身も、「過去は素晴らしかった」という、夢を見させてくれる空っぽの幻想に取り憑かれていたのだ。
ギルは、そこから成長し、憧れを捨て、現実を捉えて、作家として作品を作ろうと決意する。
芸術家たちのモノマネ
この映画に出てくる芸術家たちは、現代人が持っているその芸術家のイメージを再現した、いわばモノマネキャラクターである。
ここには2つの見ドコロがあると思う。
1つは単純に、モノマネを見るのが楽しいのと一緒で、彼らの振る舞いが面白いということ。そして多分、この面白さを感じるのに、芸術家にすごく詳しい必要がないのがすごいところだ。
ぼくはそこまで芸術家に詳しくないが、例えば、ダリが登場するシーンなんかは、「ダリっぽいなぁ〜」とよく知りもしないのにしみじみ感じてしまった。
この「本物をよく知らなくても面白いモノマネ」というのは、モノマネの中でもかなり高度なモノマネなのではないかと個人的に思う。
それはつまり、具体的な何かの真似をしているのではなく、抽象的なイメージを真似しているのだ。
日本の芸人さんでも、特定の誰かではなく「OL」とか「サラリーマン」とか「親戚のおじさん」とか、一般名詞の人物をモノマネし、それがまさにその通りで面白い、というパターンのモノマネがある。
この映画で出てくる芸術家たちは、まさにそういう高度なモノマネの産物なのではないかと思う。
そして、これが2つ目の見ドコロにつながる点なのだが、この芸術家たちが、本物ではなくモノマネなのだ、と思って見ると、また違った視点が得られる。
この芸術家たちにリアリティがあるかといえばあまりなく、ギルが難なくスムーズに彼らの中に溶け込んでいく様子も、出来過ぎていてリアリティがない。
彼らはモノマネであって、本物ではない。デフォルメされたキャラクターであって、本当の人間ではない。
このご都合主義的なリアリティのなさこそが、ギルが過去に抱く「幻想」をまさに象徴しているのではないだろうか。
この映画に出てくる芸術家たちは、ギルに都合よく立ち回ってくれる。
それは、「幻想」がいつも人間にとって都合のいいものであることに似ている。
もちろん、このタイムトラベルがギルの夢や妄想だったという意味ではない。それはギルを尾行する探偵もタイムトラベルしている様子から、ストーリー内で実際に起こったことなのは間違いない。
しかし、観客の目からメタにこのストーリーを見ると、このギルのタイムトラベルは、ギルの幻想の具現化そのものだと受け取れる。
その視点から見れば、ギルがラストで、「幻想を捨てる」という発言とともに現代に帰ってくることの筋も通る。そして、幻想の中で出会った夢のような女性は、さらに幻想の深くへと消えていく。
映画冒頭で「あなたはファンタジーに恋してる」とイネズに言われていたギルは、この経験を通して現実世界で創作に向き合う覚悟を決め、さらに現実の女性に出会うのだ。
このラストの出会いは、幻想を捨てたギルに、別の希望を残すという、前向きなエンディングとして機能している。
レコメンド作品
ヤング・アダルト・ニューヨーク
自分の表現と社会との折り合いの間で苦悩し疎外感を感じる主人公を描く作品
ビフォア・サンライズ 恋人までの距離(ディスタンス)
海外で偶然の出会い。ときめきの時間を過ごす2人を描いたストーリー
奇人たちの晩餐会 USA
変人の集まりに招かれたビジネスマンがその人たちに影響を受け成長する作品
キング・オブ・コメディ
自分の表現以外に興味がない男の狂気を描いた作品
私がクマにキレた理由
セレブ家庭で働く中流育ちの女性がセレブたちの欺瞞にうんざりする作品