概要
1930年のパリ。孤児のヒューゴは駅で時計台の管理をしながら、構内の店から食べ物を盗んで暮らしていた。
ヒューゴは火事で死んだ父と一緒に修理していた機械人形の修理を続けており、そのための部品をオモチャ屋から盗んでいたことで、そこの主人ジョルジュの怒りを買い、父との思い出のノートを取られてしまう。
ヒューゴはノートを返してもらうためにジョルジュの家までついていき、そこでジョルジュの養女イザベラと出会い、2人は意気投合する。
そして、なぜかイザベラのネックレスについていた鍵が、ヒューゴの修理する機械人形の最後の部品であることが分かり、その部品によって機械人形が動き出す。機械人形はある絵を描き、そこにはなぜか「ジョルジュ」の名前がサインされる。
2人は、ジョルジュとこの絵に何の関係があるのか調べ始める。
レビューの印象
高評価
- 映画史やメリエスを知っていると、当時のエピソードを想像させるストーリーが面白く、強い映画愛を感じる
- 主人公の境遇や、そんな中でも父の形見を修理し続ける姿が感動的
- ノスタルジックで、不思議な世界観、歯車や機械仕掛けの小道具が観ていて楽しい
低評価
- 映画史の内容とヒューゴの物語が一本のストーリーとしてまとまっておらず、退屈
- これといった発明品がなく、期待外れ
- 展開がもたついていてだるい
ナニミルレビュー(2Dで鑑賞)
オススメ度:B
こんな気分の時オススメ:幻想的な寓話のような映画が観たい時。映画史をベースにした映画が観たい時。少年と老人の友情が観たい時。
ポジティブ
舞台になっている駅の不思議な世界観が面白い。フランスなのに英語で、しかもイギリス訛り。お店が立ち並ぶ様子は「当時はこういう感じだったのかな」と思えるし、同時に歯車だらけの裏側はフィクショナルな感じ。現実っぽくもファンタジックにも見える世界観がいい。
そして、やっぱり映画史を振り返っているところが面白い。特に、ガラスのスタジオの中で、色々な小物や装置がひしめきあいながら撮影している様子の「楽しそう!」感がすごい。ものづくりのワクワク感が溢れ出ている。
そして、今ほどテクニックが高度じゃない分、初期衝動の楽しさ、ひらめきがどんどん形になっていく嬉しさが全面に出ている。難しく考えずに、やりたいと思ったことを躊躇せずにやっていく前向きさを感じられる。
ネガティブ
全体としてストーリーが弱い感じがある。キャラクターたちの行動が場当たり的で、一貫した目的や動機がないからだろう。
前半は、機械人形を修理することが目的になっているが、修理の完了が何を意味するのかが分からず、あくまでヒューゴにとっての父との絆だけが動機になっている。だからヒューゴに感情移入できなければ、この前半は、何を見せられているのかよく分からず、退屈に感じられる。
個人的には、ヒューゴの悲壮感もそんなに感じられなくて、ヒューゴがこの機械人形になぜここまで思い入れているのかがあまり理解できなかった。さらに、ノートがなくても機械人形は完成し、さらに、機械人形の行うことも正直ガッカリするものだった。
これでだいぶテンションが下がる人は一定数いるのではないかと思う。
後半は、ジョルジュの半生を、映画の歴史と共に見せていく展開で、歴史の説明としてはとても面白いのだが、そこはあくまで回想シーンなので、やはりストーリーとしては弱い。
後半で描かれる出来事は2つあり、1つは、ヒューゴがジョルジュに再び希望を持たせるため、ジョルジュの作品を彼に見せようとすること。これはジョルジュの妻に拒まれるくらいで、比較的簡単にクリアされる。
もう1つの出来事は、ジョルジュを元気付けるため機械人形を彼の元に持って行こうとするが、それを公安官に邪魔されるというもの。だが、ヒューゴが不自然なまでに事情を公安官に話さない違和感があるし、機械人形に関わらずジョルジュはすでに立ち直っており、結果的に、ヒューゴの行動にあまり意味を感じない結末になっている。
映画全体的に、オマージュやスペクタクルを見せるために無理のある展開になっているところも多く、ストーリーとしては及第点以下だと思う。あくまで映像ありき、ジョルジュや映画の歴史ありきな映画なので、そこに興味を持てない人からすると、なんかよく分からない、という感想を抱くかもしれない。
加えて、駅構内でのドタバタ劇的な、サイレントコメディ映画的な見せ方も、あんまり面白くない。なんかモタモタしている。動きのわざとらしさが、コミカルさというより違和感として見えてしまう。そして、この駅構内のエピソードもストーリー的にあまり活かされていないのも残念。
「再生」ということ
この映画は、ジョルジュ・メリエスという初期映画監督の半生を振り返りながら、過去の映画作品を紹介する、という役割を持った映画である。
ジョルジュは、オモチャ屋の冴えない店主として登場するが、実は初期映画史の超獣大人物であることが終盤で明らかになる。
なぜそんな人が、オモチャ屋の店主なんてしているのか。その部分が、この映画のドラマの1つにもなっている。
ジョルジュ、いわば過去の成功者かつ今の没落者、というキャラクターである。
一時は映画の新しい手法を開拓し、作品は人気を博したが、それはずっとは続かず、落ちぶれ、結局は挫折してしまった人物として描かれている。
そのジョルジュをヒューゴたちが再び奮い立たせる、というのがドラマになっている。
とはいえ、このドラマの部分が凄く面白いかというと、結構微妙で、ジョルジュはわりとひょっこり絶望から立ち直ってしまうので、少し肩透かしではある。
このストーリーにおいて面白いのは、ジョルジュが挫折した時に、小道具やフィルムを売ったり捨てたりしてしまったという事実である。
小道具ならまだしも、ジョルジュのフィルムは化学製品の会社に売られ、溶かされてリサイクルされ、靴の原料になってしまう。このシーンの喪失感たるや、というすごいシーンになっている。
そして、ジョルジュの作品で残っているのは、映画研究者が持っていたフィルム1本だけになってしまう。後々世界各地でフィルムが掘り出され、80本ほどのフィルムが見つかったと説明されるが、それでも数百本のうちの80本である。
つまり、ジョルジュがキャリアのある部分を捧げて作った貴重な作品たち、さらに映画史初期の重要な作品たちは、もう観ることができないものになったのだ。
それらは、もう世界に存在しない。
ジョルジュの回想シーンを通じて、初期の映画が作られる際のさまざまな工夫が描かれる。これの中で現在の映画に通じるものもたくさんある。映画における編集技術のルーツがジョルジュのフィルムにはたくさん詰まっていたはずだ。
それが、ジョルジュの挫折によって、ただの靴になってしまったのだ。
この悲劇的な事実の後で、残っているフィルムの上映会が行われる。
このシーンが感動的に、過去のフィルムを再生することの重大さが感じられるものになっている。
ここで上映される作品は、ジョルジュがもう2度と観ることがないと思っていたものだ。ジョルジュはこの作品が世界に存在することさえ知らなかった。
そして実際、そうやって上映されるまでは、存在しないのと同じことだったのだ。
「再生」という字は、「再び生きる」と書く。このことの意味がひしひしと感じられるようなシーンになっている。
時間を超えて、絶望を超えて、喪失を超えて、作品は再生すればまた生き返る。
そういう感動を味わえるラストになっている。
無駄な部品はない
ヒューゴのストーリーを通して描かれるのは、世界に無駄な人などいない、というメッセージだ。
ヒューゴはすべてのものは目的を果たすために存在していると話す。目的を失ったものは壊れて役割を果たせなくなると言う。
ヒューゴが物を修理するのは、また目的を果たせるようにしてやるためだ。
父を亡くしたヒューゴにとって、父と始めた機械人形の修理が目的であり、だからヒューゴは自分が壊れないように、その修理に執着したのだろう。そして、その修理が終わると、今度はジョルジュの修理を目的にする。
「私の目的は何だろう」と聞くイザベラに、ヒューゴは「わからない」と答えつつ、パリの夜景を見せる。
そこからは世界が1つの大きな機械のように見える。ヒューゴは、機械に無駄なパーツはなく、だから、世界の中にいる自分もイザベルも必要なパーツに違いないんだ、と言ってイザベルを励ます。
ヒューゴは、ネジを回して機械を直すのと同じく、目的を与えることで壊れたジョルジュを立ち直らせる。
ジョルジュは映画づくりという目的を失い、壊れ、監督という役目を果たせなくなっていた。ヒューゴは再びジョルジュに情熱を思い出させた。それがヒューゴの役目だったから。
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