概要
1950年代のアメリカ。フランクとエイプリルは、郊外に一軒家を買い、夫は電車に乗って都心の会社へ出勤し、妻は家で専業主婦という典型的な生活を送り、子供にも恵まれ、絵に描いたような幸福な家庭を築いていた。
しかし、どこか閉塞感を感じる妻エイプリルは、フランクに「パリへ移住しよう」と提案する。エイプリルは、パリへ行けば自分が働き、フランクは若い頃語ったように、夢を追う生活ができると彼を説得し、フランクも妻の熱意に押されてパリ移住に賛成する。
しかし、ある出来事からこの移住計画が頓挫し、そこから夫妻の溝が深まっていき、それまで無視してきた様々なズレが噴き出しはじめる。
レビューの印象
高評価
- 分かり合うことの難しさ、結婚の厳しい側面を容赦なく描いている
- 「結婚」や「恋愛」に限らず、ある価値観や虚無感に囚われてしまう主人公たちに半ば共感し、考えさせられた
- 映像が美しい
低評価
- 主人公に共感できず、ストーリーに乗れなかった
- 見たくない現実を見せられて疲れる
- 後味が悪い
ナニミルレビュー
ポジティブ
相手にも自分にも幻想を持って結婚し、それが崩れ、不幸へと収束していく過程が容赦無く描かれていて圧倒される。
どこかチグハグな感じ。どこか分かり合えていない感じ。どこか取り繕ったような感じ。そういう違和感と、その違和感の中で生活を続ける夫妻のシンドさが繰り返される夫婦ゲンカを通してひしひしと伝わってくる。
また、エイプリルやフランクそれぞれの言動について、見る人によって態度や感情移入先が変わりそうなのも、この映画の面白さ。
必ずしも「結婚」というモチーフに注目する必要もなく、「夢」とか「特別な人生」という誰しもが1度は持つであろう思いに焦点を当てて、それに執着するエイプリルと、その夫フランク、そして周囲の人々という構図で観ても、感じられることがたくさんある。
誰に感情移入し、誰に同意し、誰に反感を持ったか。どんな状況の人が観ても、観終わった後に自分の感想をいろいろ考えてみると発見がありそうな映画。
ネガティブ
ロマンチックなロマンス映画だと思って観たら、ガッカリするだろう(それでも得るものがあると思うけど)。
そして、登場人物の誰にも共感したり感情移入したりできない場合は、他人の夫婦ゲンカや、どうでも良いご近所付き合いを見せられるだけの退屈な映画でしかないかもしれない。
「特別な私」という業
フランクとエイプリルらウィーラー夫妻は、事あるごとに周囲から「あなたたちは特別よ」と言われている。実際、彼らは美男美女カップル。エイプリルは女優を目指していた過去があり、フランクも日常生活を「退屈だ」と言わんばかりで、いわゆる「平均」ではない夫妻として描かれている。
この「自分は他と違う」「自分は他の人とは違う人生を歩むはず」「この普通の暮らしは自分の本来の生活じゃない」という気持ちが、この映画の核になっている。
エイプリルが考えるパリへの移住計画は、その「特別さ」の実現計画である。
しかしその実、この計画にはあまり中身がないのもポイント。エイプリルは、パリでは自分が働き、フランクは何か自分が追い求めるものを探せば良い、と話す。
そして、フランクも、特に思い当たる目指すべき「何か」もないまま「じゃあ、そうしよう」といってエイプリルの提案に乗る。
ここには、彼らの「特別さ」の実質があるわけではなく、ただ「他とは違う」というズレがあるだけだ。だから、彼らの行動は周りからは空虚に見える。
普通は、何か明確な野望があったり、才能があったり、そういう「何かが在る」から「特別」ということになる。しかし、彼らはとりあえず周囲からズレることで「特別」になろうとしている。そこには「同じではない」という「不在」があるだけで、才能や野望という実質が「在る」わけではない。
つまり、ここには否定しかない。それがこの夫妻の問題だ。
そして、こういう「否定によって特別になろうとする」という行為は、この映画がモチーフとしている結婚生活や、男女関係の中のみでなく、普遍的に人間が抱え得る問題だと言える。
田舎が嫌で上京する人間は、エイプリルのしていることに共感できるはずだ。
「とにかく、ここじゃない」という実感は間違っていないかもしれない。だがそれは、「ここじゃなければ上手くいく」という結論とイコールではない。ここじゃない場所は無数にあり、上手くいかない場所も無数にある。
しかし、「ここじゃない」という実感に強く突き動かされる人間は、ついつい他に移りさえすれば上手くいく、という考えに取り憑かれてしまう。
まさにエイプリルはそういう人であり、だからこそ、この計画の挫折に、自分の人生の挫折を見出してしまう。
深まっていく夫妻の溝
エイプリルとフランクでは、この「特別さ」に対する執着の度合いに大きな差がある。それが、この映画の鬱々としたドラマを生み出している。
2人の出会いのシーン。ちょっとカッコつけたフランクにエイプリルは惹かれ、2人は恋愛関係になる。次のカットではエイプリルの残念な舞台シーンになり、2人は帰りの車で大ゲンカを始める。
女優の夢を引きずるエイプリルと、家庭を持って退屈な仕事で日々をやり過ごすフランク。
そして、専業主婦で鬱憤の溜まったエイプリルは、パリへの移住計画をフランクに持ちかける。
これにフランクは賛同するが、フランクはエイプリルほど、この退屈な生活に絶望していない。フランクはエイプリルの希望に乗っかっているだけであり、エイプリルのご機嫌を取るために一緒にパリへの熱に浮かされたフリをしているだけなのだ。
と同時に、さらなる問題は、エイプリルがこの計画を「フランクのため」という建前で推し進めようとしていることだ。「あなたの自由のため」「あなたを退屈な仕事から解放するため」とエイプリルはしきりにフランクを説得する。
エイプリルは、フランクが自分と同じくらいこの生活に嫌気がさしていると想定し、自分と同じくらい熱烈に逃避を望んでいるという前提でフランクに接している。だが、それは違う。
フランクは表面的には周りの「普通の人々」を蔑んだような態度をとっているが、その実、自分は「普通の生活」に甘んじて、それをそれなりに楽しんでいるのだ。
だからこそ、昇進、妊娠という出来事によってフランクは心変わりし、この心変わりが、夫妻間の決定的な断裂を生んでしまう。
この2人は、お互いに嘘をついている。
フランクはエイプリルに出会った時、「自分は特別だ」という幻想をエイプリルに見せている。だからこそエイプリルはフランクに惹かれたのだろう。
そしてエイプリルは、自分がこの生活から抜け出したいだけだという本心を(恐らく無自覚に)隠して、「これはフランクのためだ」という嘘をフランクにつき続ける。
そして、このお互いに対する嘘が機能しているうちは、夫妻は上手くいっていた。2人でパリへの思いを語り、パリ行きに怪訝な顔をする周囲の人々を一緒にあざ笑っていた。
しかし、お互いの本心が顔を出し始めると、夫妻仲は最悪になり、それがさらに最悪な結末を導く。
この映画のラストシーンは、夫妻に家を紹介したヘレンら老夫妻の会話になっている。
ヘレンは、ウィーラー夫妻を「あなたたちは、初めて見た時から特別だった」と持ち上げる周囲の人々の1人である。
そんな彼女が、悲劇の後の映画のラストでは「あの人たちは、まあ変わった人たちだった」と評価を覆している語っている。
つまり、ヘレンはウィーラー夫妻に抱いていた「特別さ」の感情ををさっさと捨ててしまったのである。
そして、ヘレンの話を聞いているフリをしながら、ヘレンの夫ハワードは補聴器の音量を下げて、ヘレンの小言を聞かないで済ます。
ここに、ウィーラー夫妻との対比が見える。
「特別さ」という幻想に取り憑かれたエイプリルに対して、現実に合わせて、さっさと幻想を取り替えるヘレン。(ヘレンは、息子ジョンがウィーラー家で醜態を晒した時も、窓の外に「虹」を探して目をそらしている)
妻の言葉を真剣に受け止めて、それゆえに大ゲンカに発展させてしまうフランクに対して、聞いているフリをして聞き流すジョン。
ウィーラー夫妻にしても、ヘレンとハワード夫妻にしても、どちらも相手や自分に嘘をついている。そして、より上手い嘘をついている方が、安定した平和な暮らしを守っている。
映画中盤で、フランクとケンカをするエイプリルが語る。
「私たちは真実(正直さ)を大事にして生きてきたはず。なぜ真実が大事か。それは、いつでもどこでも真実だから。どんなに真実を無視しても、真実は変わらず、人は嘘をつくのが上手くなっていくだけ。だから正直な気持ちを聞かせて」
この映画の結末や、ヘレンとハワードの平穏な生活を見た上で、このエイプリルのセリフを振り返ると、何が良いのか悪いのか、考えさせられる名ゼリフであることに気づく。
まともな精神病患者
このストーリーの中で、唯一夫妻の(というかエイプリルの)閉塞感に理解を示すのが、ヘレンらの息子で精神病を患っているジョンだ。
ジョンは、平凡な暮らしを「おままごと」だと批判する。そのおままごとのため、みんな退屈な仕事を続けていると話し、ウィーラ夫妻はそれを聞いて自分たちのパリ行きを話す。
ジョンは、多くの人は「虚しさ(emptiness)」を感じているが「絶望(hopelessness)」を感じるには勇気がいる、と話す。
この「絶望」がジョンに精神病を患わせたのだろうということは想像に難くない。そして、フランクに比べて真剣に「おままごと」に嫌気がさしていたエイプリルの方は、実際、ジョンに近い状態になってしまう。
ジョンとウィーラー夫妻の違いは、ジョンが1人であるのに対して、ウィーラー夫妻にはお互いがいるということだ。
ジョンは嘘をつく相手も正直になる相手も自分しかいない。一方でフランクやエイプリルは、自分と相手、両方に嘘をついたり正直になったりするし、相手の正直さに乗っかるために嘘をついたりしているのだ。
「こんなおままごとはやめたい」というエイプリルの正直さに合わせてフランクは嘘をついてパリ移住に賛成する。そして、フランクの「退屈な毎日だ」という嘘の上に、エイプリルは「あなたのためのパリ移住」という嘘を重ねる。
この嘘と本当のチグハグさが夫妻の悲劇なのだ。
この嘘が砕け、パリ行きを中止した後、「妊娠した」といえば納得したその他大勢と違って、ジョンは納得しない。そして、「ああ、フランクが怖気付いたのか」と核心を言い当てる。
と同時に、エイプリルに対しても「同情するけど、あんたとフランクはお似合いなのかもね」と言い、結局はフランクに振り回されているだけで、「フランクのため」と嘘をつかないと行動を起こせないエイプリルの弱さもえぐってくる。
なぜジョンはここまで怒ったのだろうか。
ウィーラー夫妻にとってジョンが唯一の理解者だったのと同じように、ジョンにとってもウィーラー夫妻は唯一まともに話ができる相手だったはずだ。
だからこそ、ウィーラー夫妻が怖気付き、その他大勢の人間と同じ「おままごと」にはまってしまうことに腹が立ったのだろう。
ヘレンがジョンの暴言を夫妻に謝ると、ジョンは「僕は何回謝ればいいんだ! 何も嬉しいことがない僕のことも憐れんで欲しいね!」と悪態をつく。
ジョンにとっては、自分と同じ考えを持ち、主体性を持って行動する夫妻の存在は唯一の「嬉しいこと」だったのだろう。2人のパリ行き断念は、それが結局は幻であったことの証明だった。だからジョンは2人が許せなかったのだろう。
そしてジョンは全く幻想を見られず、真実を直視することしかできないがゆえに、精神を病んでいる。
彼は、誰よりもまともに世界を見ている存在なのだ。
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