映画

震える舌 -身体と精神、両方の苦痛-

概要

両親と娘で団地暮らしの三好家。ある日、泥んこ遊びをしていた娘の昌子が、ちょっとした怪我をしてしまう。それから昌子の様子が少しおかしくなり、心配した両親は病院に連れていく。

昌子は破傷風と診断され、楽観的に考えていた両親の期待は裏切られ、昌子の症状は悪化していってしまう。

破傷風の症状と、その処置による苦しみにもがく昌子の姿を見て、両親も精神的に追い詰められていく。

辛い治療にも関わらず悪化していく昌子と、希望を失いギクシャクしていく両親。いつ発作が起こるか分からない緊張感の中、病院で寝泊まりする日々が続いていく。

みんなのレビュー

高評価

  • 破傷風の辛さ、闘病の苦しさが、映像と音声を通して甘さも容赦もなく描かれている
  • 家族が精神的に疲れていく様子もドラマとして見どころになっている
  • 比較的ドライに描かれている医者や医療にリアルさを感じる

低評価

  • 現実的な問題を扱っているのに、演出が過剰にホラー映画的で違和感がある
  • ホラー映画を期待して観ると、拍子抜けする
  • 病院やその設備等の設定に無理を感じる

ナニミルレビュー

オススメ度:B

こんな気分の時オススメ:ホラー風味の難病ものが観たい時。病気のこわさを味わいたい時。精神的に疲れる映画が観たい時。

良い点!

誰が見ても破傷風の怖さを理解できる内容になっている。その苦しさ、痛さを容赦なく描いている。そこに関してはホラー映画。

そして、本当になんでもないようなことで日常が壊れていってしまうんだという、病気の恐怖感。

破傷風による身体的な苦痛だけではなく、その看病をする両親の精神的な苦痛もドラマとして展開しており、さらに、それに立ち向かう医者の強さや信念も感じられる。

見終わると、日常に感謝できる。

イマイチな点・・・

途中に挟まれる父の述懐ナレーションは、ややわざとらしさを感じた。

そして、バイオリンの曲は良かったが、サイバー感のある電子音音楽があまりあっていないように感じた。

身体的苦痛から精神的苦痛への展開

この映画では苦痛がメインに描かれている。

前半は破傷風を患ってしまった少女昌子の身体的苦痛。後半それを見守る両親の精神的苦痛。

昌子の苦しみを表すのに、声と息の音が使われている。昌子の叫び声はもちろん、苦しそうな呼吸が、見ているこちらの呼吸も苦しくさせる。

破傷風と分かる前の検査シーンから、痙攣による体のこわばり、昌子の発作を抑えるためになされる処置。どれも痛みや苦しさを伴って容赦なく描かれる。

痙攣によって歯を食いしばってしまう昌子。医者たちが歯の間に器具を入れて口をどうにかこじ開けるという場面が何度かある。

ある痙攣の際、どうしても口が開かず、医者が両親に「この子の前歯、乳歯? それとも永久歯?」と聞く場面がある。何も言い返せない両親を「乳歯だろう? ならまた生えてくるからいいよね」と諭して処置をするシーンがある。

歯を食いしばっている昌子は苦しそうだ。そして、それを解消するためには歯を抜くしかない。どっちも地獄だ。

この場面は象徴的だが、病気を治すためとはいえ、小さな子が身体を痛めつけられる惨さの連続。

こうして映画前半は、昌子の痙攣と出血、叫び声、苦しい呼吸音、医療的処置によって、身体的な苦しさが表現されるシーンが続く。

立て続けに続く苦痛描写に、多くの観客は「痛いシーンはもう見たくない」と思うだろう。これが両親の精神状態にシンクロする。だから、メンタルがおかしくなっていく両親を見て、無理もないと感じられる。

発作が酷くなる昌子は、口にチューブをはめられ、酸素を満たしたカバーをかけられる。

これにより映画後半では昌子の叫び声がなくなり、身体的苦痛の描写は減る。

そして逆に、両親が精神的に追い詰められ、2人の関係がギクシャクしていくドラマの方に焦点が移る。

辛い治療を受けているにも関わらず、一向によくならない昌子。両親は絶望し始め、娘の死を覚悟する。

と同時に、昌子の唾液や血液を触っていた2人は、自分たちもまた破傷風にかかってしまったんじゃないかと不安になり、自覚症状を錯覚し始める。

娘を心配しながら、自分もそうなってしまうのではないかという不安に襲われる。そして、娘のことを考えるべき時に、自分の身を案じてしまう、親としての罪悪感にも襲われる。

2人はげっそりと痩せこけ、表情も暗く、目も虚ろになっていく。

昌子の身体的苦痛、両親の精神的苦痛。

破傷風という病気を通して、その両方の苦しさを、容赦なく描いている。

医者の強さ

昌子の担当医は能勢という医師。

能勢を見ていると、命と対峙する医者が持つ、人間としての強さをひしひしと感じる。

彼女は昌子が発作になるたびに呼び出され、夜も病院に泊まりながら昌子に対する処置を続ける。

両親の精神的苦痛を目の当たりにしていると、「なぜ能勢は医者なんかやっているんだろう」と思ってしまう。

両親からすれば、昌子が破傷風にかかってしまったのは全くの不運。その偶然によって「子供を産まなければよかった」と言ってしまうほど苦しめられている。

一方で、医者である能勢は、患者の苦しみを目の当たりにしながら、さらなる苦痛を与える医療処置を行う立場に、自らの意思で身を置いている。

もがき苦しむ昌子に処置をし、その後冷静に病室を出ていく能勢の態度は、見方によっては冷たくも見える。

能勢に限らず、他の医者もみんな冷静で、処置のために少女の歯を抜くことまでする。

痛がる少女の歯を抜くなんて、どんな精神力があればできるんだろう、と思う。

この映画を見ていると、医者は「命を救うこと」に慣れているのだ、と思わされる。

両親にせよ観客にせよ、普通の人は、目の前の苦痛に目を奪われてしまう。

しかし、それは短絡的な見方であって、命を救うために乗り越えるべきものであれば、医者は容赦なく患者に苦痛を与える。

母親の邦江は「もうこれ以上何もしないで」と能勢に包丁を向ける。邦江は昌子の快方を信じきれず、苦しんだ末に死ぬなら、これ以上昌子を苦しめないでくれ、と思ったのだろう。

しかし、そこまでされても能勢は命を救うために処置を続ける。

苦痛にもがく少女を見ても、やつれて包丁を向ける母親を見ても、能勢は怯まず、命を救う処置を続ける。

医者が容赦ないのは、最後まで命を救えると信じているからなのだろう。そして、命を救うことに意義を感じているからこそ、苦しみを直視する立場に自らの意思で立っているのだろう。

そう考えると、医者って凄まじい職業だな、と思わされる。

日常のありがたさ

誰でも経験のあることだろうが、病気になると、いかに日常が快適で幸福だったかと実感する。

この映画を見終わると、この日常に対する感謝が湧き上がる。

映画序盤で、日常がじわじわと崩れていく。

単なるわがまま? ちょっとした風邪? ストレス? と、昌子の異変を日常の中に収めようとする両親。

さらに、病院で破傷風と診断されても、まさかここまで大変な治療になるとは思っていなかった。

本当に、小さな小さな傷。子供なら誰でもするような泥遊び中の、誰もが経験する程度の小さな傷。

これでここまで日常が壊れえるんだ、と思うとゾッとする。

昌子の看病をする両親に対して、お見舞いに来てくれる家族や友人は、日常の中から両親をサポートする。

特に、昌子の父方の祖母は、過去にこの地獄を経験した1人である。

父の昭は少年時代、敗血症にかかっており、祖母はその看病をしていた。

祖母は、昭の苦しい治療を目の当たりにし、そしてその快方も経験して、日常に戻っていった人だ。

祖母にとっては、闘病は「そんな辛いこともあったな」と思い返すような過去の話だ。

ここに、昌子のこの苦しみも辛い過去になって、また日常が戻ってきてくれるかもしれない、という希望がある。

両親は、今まさに進行中の非日常に飲まれている。

祖母は、「同じ苦労の繰り返しだよ。今度はあんたたちの番だ」と言って、昭を慰める。

この言葉には、客観的に状況を俯瞰する強さがある。

祖母の苦労があり、それが終わった。そして今、昭たちがその苦労の中にいる。だから、きっとそれは終わるはずだ。そしてまた日常に戻れるはずだ。

日常が一瞬で非日常に変わってしまうように、非日常もそのうち終わり、また日常が帰ってくる。

そしてその時には、改めて日常のありがたさに気付く。

そんな感謝の気持ちを思い出させてくれる映画だ。

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